毛野臣送還後の任那について 十九
沙也香は言った。「任那と百済の姿勢がなんだかグチャグチャじゃないですか?」
「たしかにそうだ。大和朝は任那策をどのように進めたいのだか良く解らない所があるね。とにかく任那と任那日本府は百済と対話したくないと言うことは言えるね。この次の条を読むとそれがいくらか整理されてくると思うのだ。
欽明天皇五年(544年)三月 百済は日本に上司を遣わせて言った。「任那が百済にやってこないのは移那斯・麻都ら悪巧みの徒がすることなのです。任那(任那諸国)は安羅(日本府所在地)を兄とし安羅は日本を父と仰ぎ、その意に従います。しかし、いま日本府の高官、的臣・吉備臣・河内直らは移那斯・麻都の指揮に従っているのみです。移那斯・麻都は身分の卑しい出身の者ですが、日本府の方策を欲しいままにしています。また任那を制して執事が百済にやって来るのを遮っております。このため百済と任那は任那復興の良策を天皇にお示しできません。それで至急に使を立てて申し上げます。もし二人の安羅における企みを放置するならば任那の復興は困難で、百済と共に、天皇にお仕えすることはできなくなります。伏してお願いしたいことは、この二人を本の国(百済)に帰らせて頂くことです。・・・このように奏上しますと天皇は次のように言われました。
『的臣(前記印奇の臣)・吉備臣・河内直が新羅に行ったことは私が命じたことではない。昔、任那が新羅に攻められて耕作することができなくなった。百済は、この時助けることができず、的臣が新羅に通って任那は耕作できるようになったと言うことをかって聞いたことがある。おそらく、それで的臣は新羅と親しいのであろう。日本府を牛耳っているという移那斯・麻都らは任那が復興すれば当然身を引かせることになろう』と。
これを聞いて私どもは喜びました。それというのも日本府が新羅に接近しているのは天皇の意志ではないと知ることができたからです。
しかし昔、新羅は喙淳を取り、わが久礼山の守備兵を追い出し占領してしまいました。安羅に近いところは安羅が耕し、久礼山に近いところは新羅が耕しました。以後おのおのの地を耕してお互いに侵し奪うと言うことがなかったのです。その後百済は任那を守るために錬磨した兵を送り出してきましたので新羅は耕地を侵略できずにいました。これによれば的臣が新羅と議して任那が耕作できるようにしたというのは偽りです。それを的臣の手柄として天皇をだまして奏上するなどにみられるように、この他にも必ず嘘があるに違いありません。このような的臣らがなお安羅にいるならば任那の国は恐らく復興が難しいでしょうから早く解任すべきであります。
麻都は韓地の生まれといっても位は大連です。日本府の卿にあいだに混じって栄え、貴族の列に加わっています。それであるのに新羅の奈麻礼の位(新羅官位十七位の十一位)の衣を着ています。心の有り様は姿と形に現れやすいと言います。私はそれを恐れます。
麻都は今もなお、新羅の福を着、朝夕に新羅の地に行って、ひそかに謀反の心を抱いています。おそるべきは任那がこれによって永久に滅びる事です。任那が滅びれば臣が国は一人危ういと言うことになります。そうなれば日本に朝貢したくてもできなくなるでしょう。伏して願う事は天皇が明察により彼らを速やかに本国に収監して頂くことです。」