毛野臣送還後の任那について 十七
祐司は田沼の話の間に書紀文庫本をめくっていた。ページをめくる手を止めると、祐司は絶叫するような声をあげた。
「ああ!ありました!ありました!本当だ田沼さんの言うとおりだ!記事はこうですね。
天皇(顕宗)三年(487年)の四月二十五日に八釣宮(飛鳥周辺)に崩りましぬ。
この年、任那の紀生磐宿禰、任那に股をかけて高句麗に通じた。西方の三韓(百済、新羅、高句麗)に王であろうとして、官府を整えて、みずから、神聖と名乗った。任那の佐魯・奈奇他甲背らを用いて謀って、百済の高官を高句麗の爾林で殺した。帯山城(全羅北道・韓国西南の海岸地域。当時百済領)を築いて東岸への道を守り固めた。百済軍の食糧を搬入する港を押さえて、軍を飢え苦しませた。百済王はおおいに怒り、王子らを遣わして兵を率いさせて、帯山を攻めさせた。生磐の軍は百済軍を迎い撃った。軍の勢いは盛んで向かう所は皆破った。しかし時が経つとさすがの兵の力も尽きた。任那の軍は勝利できないと判断し、任那に帰っていった。百済は追撃し将と兵三百余人を殺した。
これは、任那も相当な勢力ですね。・・・これが、言うなれば任那の最盛期ですか。この百済との戦闘により、それ以降、徐々に力を失っていったというところですね」
「僕はね。この任那の背後に、大和王朝でなく倭国の存在を感じるんだけど、どうかな?・・・この出来事について後代の欽明天皇は河内直の祖は紀生磐をおだて上げて、任那を滅亡させたといっているのだと
思う。けれど、任那が、もしこの戦闘に勝利していれば、任那が百済や新羅に吸収されることはなかったと思うね。なぜならば、任那は神聖と呼ばせるような王を持ったのだから。・・・つまりは、任那の滅亡は、磐井の乱の以前からじわじわと進行していたということだ。」
祐司は言った。「これによれば、任那は統一国家を作り上げる寸前だったんですね。しかし、すでに百済と新羅は、先んじて強力な国家を作り上げていて、機会があったら任那の土地を少しでも奪おうとしていたと言うことなのじゃないのかな。エート、継体八年(514年)に任那の四県は百済の手に渡るのだったね。つまり任那の統一が失敗してからおよそ30年後だ。その後、継体二十五年に磐井の乱があって、それに毛野の任那策の失敗がある、という時系列ですか?」
「今、我々は、欽明天皇の時代(540年~571年)にいる。欽明二十三年になると、遂に我々は任那の滅亡を見ることとはなるのだが、我々はあと十八年ほど任那の衰微を見続けよう。」