毛野臣送還後の任那について 十五
「欽明五年二月 百済は任那に臣を遣わして日本府と任那の旱岐らに言った。「私(聖明王)は三年前(欽明二年七月条記載)に臣を日本に遣いとさせた。その遣いである弥麻沙らは日本より詔書を持ち帰って、読みあげた。『汝たち百済は日本府と共に、すみやかに良い計画を立てて、私(天皇)の望みをかなえよ。いまこそ、それに勤めよ。人に誑かされてはならないぞ。』と。
また、津守連・・・百済本紀に津守連己麻奴跪(津守連高麗の子という意味)とあるが、それにしては韓の言葉の発音がおかしく、疑わしいとある・・・は日本より来て詔を読んで、百済に任那策を問うた。それで、任那を呼ぶこと三度に渡ったが、任那の指導者達はなお来ることがなかった。これによって、百済は任那に対する策を図って天皇に奏上することができないでいた。したがって津守連を百済に留めて、別に使いの速いこと飛ぶ鳥のごときを天皇のもとに遣わして現状をつぶさに伝えようと思う。まさに三月十日をもって、使いを日本に出発させる。この使いが、百済に戻ったならば、天皇は必ず汝等に厳しい詔をなされるだろう。汝らは、それ故、必ず百済に、おのおのに使いを遣わして、持ち帰られる天皇の詔を聴くべきである。」
百済王は別に河内直に言った。『昔から今にいたるまで、私は、ただ汝の家の悪行のみを聞いた。汝が先祖らは共に悪巧みを抱いて説いた。為哥可君(恐らく過去の日本府の指導者。紀生磐の説あり。書紀に顕宗天皇三年(487年)紀生磐は任那、百済、新羅に覇を持ち、三韓に王となろうとし官制を整え、自ら神聖と名乗った!という記事がある。)は、その言葉をもっぱら信じて日本の国益を考えなかった。わが心にそむき暴虐に走った。故に為哥可君は追放された。これは汝らの行ったことだ。汝らは、日本から任那に来て常に良からぬ事をする。任那が日々損なわれるのは汝らのせいだ。汝が小者と言っても、たとえれば小さな火が山野を焼き、村里に拡がるのと同様に、汝の悪行によって任那は滅ばされるであろう。さすれば、海西の諸国(百済・新羅)は長く天皇に仕える事ができなくなる。今は天皇に申し上げて汝らを本国にもどすことをお願いする。汝も百済に来て百済に持ち帰られる天皇の詔を聴くべきである。」