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毛野臣送還後の任那について 十二

 欽明二年(541年)七月(すでに、欽明二年七月は前記されているから、あるいは欽明三年七月の誤記とも考えられているんだ。) 百済は日本に紀臣奈率弥麻沙きのおみなそちみまさ中部奈卒己連ちゅうほうなそちこれんを遣わして、下韓あるしからくに(既に新羅に併合された南加羅ではないね。任那南部である南加羅が併合されたあとに残った任那最南部を指すのだろうね。ここにはどんどん縮小する任那が目に見えるようだね!)・任那の政治について奏上し、合わせて文書を提出した。


 欽明四年(543年)四月 百済の弥麻沙らが帰国する。


 欽明四年十一月八日 津守連つもりのむらじ(摂津の豪族)を遣わして百済に天皇の言葉を伝えた。「任那の下韓あるしからくにに居る百済の郡令こおりのつかさ(任那各地域における百済の筆頭官吏だろうね。)城主きのつかさ(下韓にいくつかある百済の支配する城の主だろうね)は日本府やまとのみこともちの傘下に入れ」と。それと合わせて書を持たせた。その書の文面は次のようだ。「しばしば書を送って、今、任那を立てよと言い続けて十余年となった。申すことはこのようなことであるけれど、いまだにならず。そもそも任那は汝の国、百済の主たるはりだ。もし梁を折ることがあれば誰が屋根をかけることができるであろうか。私が思うのはそのことである。だから、今こそは速やかに任那を復興すべきである。いますみやかに任那を建てれば河内直かわちのあたいらは自然に身を引かざるをえないであろう」

 この日に聖明王は天皇の言葉を聞き終えて三人の佐平、諸臣に一人ずつ尋ねた。「天皇のおっしゃる事はかくのごとくである。はたしてどのようにすべきであろうか?」

 三人の佐平は答えて言った。「下韓あるしからくにに居る、我が国の郡令、城主を任からはずすべきでありません。しかし任那を再興することは、承るべきです。」



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