毛野臣送還後の任那について 十
「欽明天皇二年(541年)百済は安羅の日本府と新羅が謀り事を談義していると聞いて前部(百済五部地域の一)の奈卒(百済官位十六位の六位)の鼻利莫古・奈卒宣文、中部(百済五部地域の一)の奈卒弥木刕眯淳・紀臣奈卒称麻沙らを遣わした。
・・・ここで、登場する紀臣奈卒称麻沙にちょっと、注目してほしい。このころ百済には日本人と韓人の女性との間に生まれて、百済宮廷に仕えているものが結構いるんだ。紀氏・物部氏・巨勢氏の名がついた者はそれだ。百済の外交をみると、結構、多くの混血・・・韓子と呼ぶんだがね、その韓子がね、多く登場するのだ。一説によると、百済王は日本との関係を良好に運ぶために、選んで外交関係に起用したというのだね。しかし僕が思うには、百済にも任那にも韓子は少なくはないようだ。当時の百済・任那が想像以上に密接に日本と結び付いていたかを感じることができないだろうか。・・・書紀の次の文に戻ろう。
そうして、新羅に滞在している任那の執事を安羅に呼びだして、任那を再建せよと命じた。それとともに任那の日本府の河内直を新羅に通じていると激しく非難し、あわせて言った。
「昔、わが先祖の速古王・貴首王と、かっての任那の旱岐は初めて和親を結びもって兄弟となった。それで王は、汝らを子とも弟とも思い、汝らは王を父と思い兄とも思うのである。ともに天皇に仕えともに強敵を防いで、国を安泰にし家を立てて今日にいたった。わが祖先が汝らの祖先と結んだ親交を思えば、これからどうして良いかは照る日のごとく明らかである。それであるのに何で数年のあいだに、実った心を失くしたのか、いぶかしく思う。子孫の繁栄は先祖を見習うところにある、百済と、任那は懇親をとりもどして、新羅の抜き取った国を奪還せねばならない。今、王は食事をしても味わえず、寝ても安眠できないでいる。新羅が甘言して、欺こうというのは天下に良く知れたことである。汝等が甘言を真に受けて事をはこぶなら、それは既に新羅の術に落ちているのだ。いま、警戒を緩めるならば、任那は国を失い、家を亡ぼし、奴隷ともなるであろう。王は任那のこれからの苦難を思って安らぐことができない。ひそかに聴くところによると任那と新羅が謀略を巡らす席には蜂、蛇の怪事が起こるという事は世間に知られる事である。それらの怪事は任那・新羅の所業を戒めるために起きるのである。天の戒めは、先祖の霊の知らせである。禍の後に悔い、亡んでから興そうと思っても決して今のような状態に戻ることはない事を知れ」