毛野臣送還後の任那について 八
「そのあと、欽明天皇の皇室造りを描いたあと、次のような文に続いて行く。
欽明二年《541年》四月、任那の安羅(この時点の、任那およそ十国の代表国。倭国は、ここに日本府という施設を構えて、倭国と任那の意思疎通を交わしていたのだと思う。)の次旱岐(旱岐は恐らく、任那十国のそれぞれの王のこと。次旱岐は当然、旱岐につぐ重職だね。)の夷呑奚・大不孫・久取柔利、加羅(任那の一国)の上首位(官職)の古殿奚、卒麻(任那の一国)の旱岐、散半奚(任那の一国)の旱岐の子、多羅(任那の一国)の下旱歧の夷他、斯二岐(任那の一国)の旱歧の子、子他(任那の一国)の旱歧、らと日本府の吉備の臣とが、共に百済に行って天皇からの文書を聞いた。」
祐司は言った。「えーと、日本という言い方は、600年代後半書紀が編纂される過程で使われるようになったものですよね。原文の倭を日本にいれかえたものでしょう?」
「そうなんだ。日本という言い方を多用するようになったのは、恐らく大化の改新(646年)のころからの事だ。書紀は倭=大和=日本という表記を故意に用いて、大和王朝の前から存在した倭国を同一化しようとしているのだね。ここで明らかに他王朝である出雲王朝も同一化されているのに注意して欲しい。大和王朝の祖、アマテラスオオミカミが、出雲王朝の祖のスサノオの姉だといって、同国扱いをして、ながながと書紀の記事にしている。古事記などは古事記は出雲王朝史かと思われるぐらい出雲国の事を書いている。これは今で考えてみれば、ライバルの他社の創始者を元は我が社の創始者の弟だと虚言して、他社の来歴も社史に編入してしまうやり口だよ。しかも他社に関するデータを全部集めてきてことごとく焚書した上でだよ!このような改変がおこなわれる前には任那の拠点を日本府とは呼ばなかったと思う。・・・たぶん『倭府』だよね」
「そうですよね」
「・・・さて、前に進もうか。次の記事はこうだ。
百済の聖明王は任那の旱岐らに言った。
「日本の天皇のおっしゃる事のすべては任那を復活せよと言うことに尽きる。いま、どのような方策が立てられるであろうか。みな忠を尽くして、天皇の御心を安らいで差し上げようではないか」
任那の旱岐等は言った。「以前に二度も三度も新羅と合議しましたが、明確な答えがありません。ですから、この主旨を新羅に伝えても、やはり返事はないでしょう。任那と百済は共に天皇に使いを送り、こう奏上しましょう。『任那を再建することは百済王が心に留めます。方策をお教え下さる事を謹んでお願い申し上げます。任那の境は新羅に交わっていて、既に奪われた土地と同じ命運にあります』と」
聖明王は言った。「その昔、我が先祖、速古王と子の貴主王の時代に安羅・加羅・卓淳の旱岐らが、百済に初めて使いを遣わした。以来わが国と任那との友好が深まり、親戚ともなって親しく交流し、お互いに繁栄を願いあった。しかるに今、百済が新羅の策略に乗って、天皇を怒らせ、任那をして恨みに思わせているのは百済の過ちである。かって百済は任那の多沙津を得ることによって加羅を怒らせ加羅と新羅の婚姻のきっかけを作ってしまった。」