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毛野臣送還後の任那について 七

 三人は田沼と祐司の部屋に戻ってきた。

「さて、そろそろはじめるか。いよいよ問題の欽明きんめい天皇期(540年~571年)の任那の様子だよ。書紀の欽明紀は百済、任那、新羅の記事で充たされていて、あたかも韓国の国史みたいな印象すらあるんだ。ここの部分の現代語訳は、良い物がないので、ちょっと訳してみたから聞いてくれるかな。検証は訳が終わったところやろうよ。


 欽明元年(540年)九月五日 天皇は難波祝津宮なにわのほふりつのみやいでまされた。大伴大連金村・許勢臣稲持こせのおみいなもち物部大連尾興もののべのおおむらじおこしらが従った。天皇は諸臣に問うた。「どれほどの軍勢があったら新羅を討つことができるであろうか?」

 物部尾興らは言った。「少しばかりの軍勢ではたやすく討つことはできません。昔、継体帝の六年(512年)に、百済は使者を寄こして、任那の四県の譲渡を乞いました。大伴大連金村はたやすく求めるままに譲渡を許したのです。このことを新羅は積年、恨みに思っております。(我が方にも落ち度がありますから)軽々しく討とうと思ってはなりません。」

 このことで、大伴の金村は末吉の邸宅に引きこもって、病気と言って、朝廷に上って来なかった。天皇は後宮の一人である、夫人の青海勾子おうみのまがりこを使わして丁寧にねぎらわせた。

 金村はこれに恐縮して言った。「私が病んでいるのは他の事ではございません。諸々の臣らが、私の事を任那を滅ぼしたと言っております。それ故、謹慎して登朝しないのです」と。

 金村は飾った馬を使者に贈り、敬意を表した。小海の夫人はありのままを天皇に伝えた。これを聞いて天皇は言われた。「長い間、忠誠をつくした。人の噂に憂いてはならない。」そして、罪とはせずに、厚く恵みなされることがいよいよ深かった。


 ・・・宣化二年(537年)十月に新羅は任那を侵略していることは既に言ったね。これは、欽明元年の三年前の出来事だ。百済に任那四県を譲って二十五年、百済の任那防衛はいまだ実らず任那は新羅にかき回されている。これによれば大伴金村の三韓政策は、失敗したのだ。継体元年(507年)にはすでに継体朝を擁立し、大連となっている金村は高齢で七十歳ぐらい。長年権力中枢であった金村の権力のおとろえもあって、百済への四県譲渡が失敗であった、百済からその際多額の賄賂を貰ったなどという噂が金村を襲った。そしてこれを機に大伴氏は権力中枢から追いやられたのだね。

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