毛野臣送還後の任那について 五
「継体天皇期は二十五年(531年)で強制終了させていることは前に言ったとおりだよね。次の安閑天皇期は(534年)で始めて三年間をブランクにしているのだね。これを表にすると
531年 二月継体天皇亡くなる
532年
533年
534年 一月安閑天皇即位
535年 十二月安閑天皇亡くなる
536年 一月宣化元年
となる。継体期は二十五年の二月で終えていて、安閑元年は一月から始まっているから、531年~533年の年の喪失は事実上三年にわたるわけなんだ。その空白の三年間が実際、地球上から消えたわけではなく、その三年間は当然現存していて、人々は生きていたわけだ。だから、毛野臣が送還されたのは、本当はこの三年間におきた出来事かもしれないということも言えるわけだね。書紀はここで明らかに三年間、間引きという嘘をついているのだ。
さて、次は安閑期の任那関連の記事に移ろうか。安閑期は天皇が上総の真珠を求めた事。大河内直に屯倉の用地として良田を求めた事。などの国内のささいな出来事の記事がほとんどで、任那関連は
安閑元年 百済が上位官吏の摘徳孫・己州己婁らを遣わして調(貢ぎ)を献上し、別に上表文を寄こした。
と言う記事があるのみだ。上表文の内容は書かれていない。しかし磐井滅亡の関連だと思われる次の注目すべき記事がある。
安閑二年五月九日 筑紫の穂波屯倉・鎌屯倉、豊国の三崎屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉・大抜屯倉・我鹿屯倉・火の国の春日部屯倉、播磨国(兵庫県)の越部屯倉・牛鹿屯倉、備後国(広島県東半分)・・・(以下十八の屯倉列記)・・・を置いた。
僕は思うのだ。屯倉が新設された場所こそは、その多くが大和王朝の支配の及ばなかった地域ではないかとね。筑紫倭国の衰退によって、その地域が大和王朝の支配下に入ってきたという事ではないだろうか。さらにいえば、これらの地域の多くは倭国の支配する地域であったと。
・・・と言うわけで、話は次の宣化期に移る。それには、このような記事がある。
宣化二年五月 天皇が言われた。「筑紫の国は遠近の国が朝貢してくる往来の関門とするところだ。国は応神天皇から今に至るまで重要な客の為に籾米を蓄えてきた。国を安泰に保つために、これに勝る方策はない。そこで私も阿蘇君(不詳)を使って、河内の国の屯倉の籾を運ばせる。蘇我大臣稲目は尾張連を使って尾張の国の籾を運ばせよ。物部の麁鹿火は新家連を使って新家の屯倉の籾を運ばせよ。官家を那津(博多大津)の口に建てよ。筑紫・肥国・豊国の三国の屯倉は隔たっており急用の場合備えるに難しい。私の考えを早く郡県に知らしめよ」と。
宣化二年十月 天皇は新羅が任那を侵略するので、大伴金村大連に命じて、その子磐と狭手彦を遣わして任那を助けさせた。この時、磐を筑紫に留めて、筑紫の政治を執らせて、三韓に備えた。狭手彦は任那に行って鎮め、また百済を救った。
任那関係については、この二つの記事を書いて、時は欽明期に移っていくのだね。




