詩人田沼の探求の終わり 十七
「さて今日はずいぶん長く、話し込んでしまったね。今日はこれまでにしておこうか。今日は磐井の死の後の、様々なことを検証したけど、どうだったかな?」
祐司は言った。「継体王が、近畿周辺の諸王に王の王として擁立されて立ったと言うことがわかりましたね。それと、磐井の死後、任那が非常に動揺している事も理解できました。」
沙也香も言った。「継体天皇に続く安閑、宣化天皇は継体が天皇になる前からの妻との子で、その妻が大和王家と無縁の血筋だとは知りませんでした。継体天皇が、一説で言われるように大和王家と無縁の血筋であったとしたら、この安閑、宣化天皇は、大和王家とはなんの血のつながりがない、別王家だということですよね!」
「そうなんだ。別の王朝なんだよ。その別の王朝が安閑・宣化あわせて、六年間の短い期間で終わって、次の欽明天皇になって、その母が濃厚な大和朝の血筋と言うことで、また大和朝に復帰しているのだ。このことに関して、百済本紀の、『日本天皇・太子・皇子ともに亡くなる』という記事が示しているのは、継体天皇と安閑・宣化が同時期に、欽明天皇を押す勢力によって、滅ぼされた事情を示しているという説があるのだが、しかしこの説には無理があるな。日本書紀は継体期二十八年にこだわっている。それなのに、百済本紀の『日本天皇・太子・皇子共に亡くなる」と言う記事が継体二十五年にあたるというので、継体期を25年にしてしまう。それでいて、縮めた三年を公然と空白にしてしまう荒々しい編集をしてしまっているのだ。
これはおそらく、書紀編纂者には継体期が二十八年間であったいう確信があったに違いないのだ。また安閑期をもって、空白期間を埋めようとしていないのは、安閑天皇にも、動かしがたい存在の確信があったからなんだ。もし、前の説が正しいのなら、書紀は継体二十八年にかくもこだわらないはずだよ。百済本紀の記事などを持ち出さず継体期をそのままにして、空白を作らずに安閑・宣化期に繋げたはずだよ。
書紀が、こうした、見え見えの空白を作って、放置するのは継体天皇の在位が二十八年で、『ある天皇』が継体在位二十五年に太子・皇子と共に亡くなった事を強調する為なのだよ。ある天皇とは誰か・・・それは磐井だよ。・・・確かに継体が亡くなった時、大和内に争乱が起こりそうな状況だけど、継体の力は強大だからこそ、大和を支配できたのだから、旧天皇家の血筋がなくとも、大和支配は続行できたろうけど、やはり欽明を待たずして、事は納まらないところがあったのかも知れないね。・・・あ、最後が長くなってしまったね。それではお休みなさい。」