詩人田沼の探求の終わり 十五
「さて、磐井追討の将軍を巡る話は、将軍が本当は大伴金村だったと言う結論を出して話を前に進めようか。この磐井が破れた年が継体二十五年(531年)だね。安閑天皇元年は534年だから三年間の空白があいてしまっているのは、前にも言ったとおりだ。空白の三年間が、時空として存在しなかったということはありえない。この三年間にもいろいろな事があったことは間違いない。継体天皇は最後の三年間を過ごしていたろうし、磐井亡き後の筑紫への対処で忙殺されていただろうね。また一方、倭国王磐井の滅亡を伝え聞いた三韓は、ますます政情が激しいものになっただろうから、それにも目を離せなかっただろうね。・・・これらの出来事を書くのなら継体二十五期年間か次の安閑、宣化天皇期六年間に移す意外にない。したがって磐井の死から継体の死までの三年間のできごとは、当然時系列が狂ってしまうね。書紀はこれをうまく交通整理しなければならなかったわけなのだ。したがってこの三年間の出来事は磐井の死後三年間か安閑・宣化期に任意に移動されているのだ。だから正確さは期待できない。しかし磐井の死を三年前に移動しているのだから、磐井死後の事象は、史実通りの配列になっていることは推測できるね。・・・さて、磐井の死後の出来事を見ていこう。時系列の混乱を避けるためにあえて年紀は書かないでおいたよ。また、書く出来事が、正確にこの通りであるとはいえない。それは、あるいは継体の死の後におこったことかもしれないよ。ここに書くのはあくまでも書紀の書くところだ。
継体天皇期は、悲劇的な毛野臣の帰還と死で幕を閉じる。次の安閑・宣化天皇期はわずかな国内の記事だけで終わるのだ。問題は次の欽明天皇期だ。ここにはまさに膨大な任那関連の記事が記載されている。
次の欽明天皇は血筋からいうと特別の存在だ。安閑・宣化天皇の母が、大和王家と血筋でない目子媛という人であるが、欽明天皇の母は手白香皇后という仁賢天皇の娘で他の七人の妻達が豪族の娘であるのに比べると、ただ一人、天皇の娘なのだ。
ここには、地方豪族の盟主となった継体が、天皇家の血筋を取り込んで、天皇家正統入りした様子が現れているね。」