詩人田沼の探求の終わり 十四
「何故、磐井追討の将軍が大伴金村から物部麁鹿火に書き替えられてしまったかだね。普通言われているように任那四県を譲り任那の衰亡を招いた失政の当事者が金村であることを隠そうとしたと言う説はどうもピントがずれているね。僕は、書紀編纂者の中に、物部氏に繋がる血筋のものがいて、自分の利益のために金村と麁鹿火を入れ替えたと思うのだ。磐井追討の将軍が自分の祖先であるなら、家の誇りじゃないか。天下の国史に物部の名を残して利益のある者は誰だろう?
日本書紀のプロデューサーとも言うべき、時の屈指の実力者右大臣藤原不比等に付き従うように左大臣石上麻呂がいた。石上氏は実は、物部氏の分流で、本家が滅んだあと、本家のような存在であったのだね。不比等は、書紀におけるスポットライトが当たる場所を、協力者の石上麻呂に与えたのではないかな。この記事改変には太安麻呂も不比等も石上麻呂も合意しているのではないだろうか。
一方、栄えある磐井追討の立役者の記事から引きずり下ろされた大伴氏は、書紀成立時期(720年)に、藤原氏地位安定のためには追い落とすべき危険な存在であった。大伴氏は、その名が示すように神武天皇のころから天皇を支える伴のうちの最も功績のある伴として長い年月を歩んできた。天智天皇の大化の改新においても、中心的な役割を果たしてきた。氏の歴史的品格は藤原氏の及ぶところではなかったようだ。物部氏(石上氏)はすでに藤原氏の家来化している。しかし大伴氏は独立性を保っていて、歴史上の名誉ある家柄だ、藤原氏は、中臣(藤原)鎌足が天智天皇とともに蘇我氏を滅ぼした大化の改新をもって、頭角を現してきたあまり伝統のない氏族だから、油断すれば藤原の明日はない。それで不比等の目はいつでも、危険な敵対者にそそがれていたのだ。・・・この点で言えば、太安麻呂の父といわれる、多品治は壬申の乱で、兵を率いて関を守り、東国の兵の侵入を防いで、後の天武天皇を勝利に導いた人物なんだが、多氏が不比等に滅ぼされなかったのは、ひとえに太安麻呂の文才によるものとは言えないだろうか。・・・ところで、この多品治なのだが、阿蘇君系図によると、その子孫なのだね。阿蘇君は別名火君で、筑紫の古代からの名家として、天皇家・出雲家より古い王族であったようなのだ。書紀にも多氏は神武天皇長男を祖としているくらいだから、太安麻呂はまさに筑紫倭国の血を感じていたに違いない。
藤原不比等が病で衰弱した晩年にいたって太安麻呂は書紀を自由にできる立場を得た。その時、太安麻呂の胸にあったのは、書紀が隠蔽した倭国の存在を復活することだったとは言えないだろうか。」