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詩人田沼の探求の終わり 十三

 祐司は言った。「書紀を読むと、毛野の死のあとも任那はまだまだ健在なような描き方をしていますがどうなんでしょうね」

「うーむ、それは僕も首を傾げる所なんだが、まあ常識的に考えれば健在であるはずがないということだよね。それで僕は毛野が亡くなった年・・・これは書紀では継体二十四年(530年)十月の事であるけど、僕の説に従えば毛野の死は、三年後の533年の事だよね。くどいようだけど日本書紀上では、西歴530年から533年が存在しない年なんだ。もっと詳しく言うと、書紀が三年間をうやむやにしてしまっているのだけど・・・なんだけど、この年以後の任那関連の記事を探してみたのだ。まず三国史紀の高句麗本紀はもとより、新羅本紀、百済本紀にも記載は皆無なんだ。次に書紀だけど、こちらにはこってり記載がある。ここでこってりというのは記事が多い割には、内容がないと言うことなんだ。しかし、その話の多くは欽明天皇期のことで、それ以前の宣化天皇期には気になる記事があるのだね。それはこうだよ。


 宣化せんか天皇二年(535年) 天皇は新羅が任那を侵略するので、大伴金村に命じて、その子(いわ)狭手彦さてひこを遣わして、任那を助けさせた。この時、磐は筑紫に留まり、その国の政治を執った。もって三韓に備えた。狭手彦は任那に行って鎮め、加うるに百済を救った。


 ここで、注目すべきは、大伴の金村の息子、磐が筑紫に留まり、その国、つまり筑紫だね、その国の政治をとったという記事だね。これは、まさに、継体天皇が磐井との戦いの前に物部麁鹿火もののべあらかいと約束した事の具現だと思う。継体天皇の命を受けて、磐井討伐の総大将になったのは物部氏でなくて本当は大伴氏だったのだ。


 昔、道臣みちのおみより最近の室屋むろやにいたるまで君を守り、打ち破ってまいりました。

この度も勤めを果たしましょう。


 と物部麁鹿火が磐井征伐将軍に任命される際に言わせているが、道臣は大伴氏の祖、室屋は大伴金村の祖父で麁鹿火が、この言葉を言うわけがない。この言葉をいうのは大伴金村以外にない。ということで、僕はここは磐井征伐将軍が大伴金村であったものが物部麁鹿火に入れ替えられていると思うのだ。・・・ そうして、大伴金村の息子の、筑紫国代表への任命の条があるから、記事が入れ替えられていることがますますはっきり証明できる。この短い記事に倭国がいよいよ大和国に吸収される最初の重大な出来事が隠されているのだと思う。大和国は、倭国統治・対韓対策の本拠地を筑紫のどこかに置いたのにちがいない。もちろん、この時にはまだ磐井の姻戚が支配する倭国諸国は健在だったという事だね。


 

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