詩人田沼の探求の終わり 十二
沙也香が言った。「なんかロマンですね。悪者にしたてあげられた、毛野臣の遺骸が、恐らく十人近い男の漕ぎ手によって川を吹奏しながら上って行く、それを長らく別れ別れになっていた妻が川の畔で出迎えている。妻の顔は涙で濡れているでしょうね。この毛野臣がかっては滅ぼされた磐井と戦友だったという背景もあって、まるで超大作映画のフィナーレのようじゃないですか!それに美しい歌!これが、今から千三百年も前に作られたなんて、なんか日本人であることに誇りを感じますね!」
「そうだよ、日本書紀は世界に誇る、叙事詩なんだ。ただの歴史書でなく歌物語であると言うことは実に素晴らしい事だよね。もっとも、書紀はここで美しいロマンを作りたくて妻が歌を歌った事にしているのかも。この素晴らしい歌の作者は本当は高名な万葉歌人であった可能性が高いな。・・・さて、磐井の死後こうして、任那が崩壊の一途をたどることになるのは任那を支える、又は任那そのものとも言える連合王朝筑紫倭国が衰亡したと言うことが最大の原因だと僕は思うのだよ。それまでは、至近の筑紫倭国が任那の背後にいて、任那をささえていたが、磐井の死によって、倭国は、日本国に吸収された形となった。磐井の死によって倭国が完全に滅びたのではないことは、前にも言ったとおり書紀の記事につぎのようにあるからだ。
筑紫の君葛子父の罪によりて誅されることを恐れて糟屋の屯倉を献上して死罪を許されようとした。
この記事では、果たして葛子が許されたのかどうか解らないが、書紀原文はこうだ。
筑紫君葛子、恐座父誅、献糟屋屯倉、求贖死罪
この記事を以て筑紫の君に関する記事は長い期間なくなってしまうのだ。もしこの戦いが、大和朝の完全勝利に終わったのなら、こうしたぶつ切れみたいな終わり方をせず・・・この条の次に来る記事は任那の多沙津を百済に与える記事なんだ。・・・普通なら筑紫の君の一族がどうなったのか、所領と得たものがどのようになったのかが記されるはずじゃないか。戦後処理がたかだか一郡と言って良い屯倉の献上に終わっているのは、大きな勝利ではなく、講和といったところが妥当ではないかな。しかし、この戦役によって、倭国が連合王国の代表王から滑り落ち日本国の一国になってしまったようには思えるのだ。
毛野に磐井はこう言っている。
今為使者 昔為吾伴 摩肩觸肘 共器同食 安得率爾為使 俾余自伏儞前
今使者と為す 昔は昔が伴と為す 肩すり肘ふれ 同じ器で同じものを食べた 汝の前にひれ伏し従って使者となる事などはできない
まあこれが原文に忠実な訳だね。これによれば、毛野は磐井の従者であった可能性もある。伴だからね。磐井が主で毛野が従だね。二人が共にした戦いは、新羅との戦いであったと考えられる。倭国とそれの属国である大和の連合軍で二人は一緒に闘ったのだ。」