詩人田沼の探求の終わり 十一
ここに任那王阿利斯等は毛野臣が下らない事ばかりして約束した任那復興が一向にすすまないので、しきりに帰朝を勧めたが還ろうとしなかった。その所行に任那王はそむく心を抱いた。それで下臣の久礼斯己母(未詳)を新羅に遣わして出兵を乞わした。また、下臣の奴須久利を百済に遣わして出兵を乞わした。
毛野臣は百済の兵が来たと聞いて背評(不詳)で迎え討った。毛野の軍勢は死ぬ者が半分である。百済は使者に来た奴須久利を捕らえて、足・手・首にカセをはめて、鉄鎖に繋げた。百済はその上で任那の城を新羅と共に囲んだ。
任那王、阿利斯等を大声でののしって言った。「毛野臣を出せ」と。毛野臣は城をたよりに閉じこもって出なかったので捕らえることはできなかった。それで二国は場所を選んで駐留すること一ヶ月となった。
両軍は城を築き残して還った。道すがら五つの城を落とした。
十月になって、毛野を召還するために来た調吉士が帰国して奏上した。「毛野臣は性格がねじけている上に政り事をするのに習熟しておりません。ついに和解なく加羅を争乱に引きずりこんでおります。その上、自分勝手にふるまって、問題を解決しようともしません。」と。
朝廷は目頬子(未詳)を遣わして、毛野を召還することにした。
この年、毛野臣は召還され対馬に到って病にかかって死んだ。葬るときに難波の港から淀川・宇治川を
さかのぼって近江に入った。毛野の妻が歌読みした。
枚方を 笛吹上る 近江の 毛野の若子が ああ今 笛吹上る
(枚方は大阪港から20キロ上流の地だ。そこで、はからずも毛野の妻が、笛を吹きながら川を上ってくる毛野の遺骸を乗せた船に出会うという設定の歌だね)
目頬子が初めて任那に到る時、そこにいる日本人が、歌を詠んで送ったという。
韓国に いかに言おうと 目頬子来る むこうはるかな 壱岐の海路を 目頬子来る
・・・まあ、これが、かっては磐井を脅かした毛野のあわれな最後であるのは、胸にくるね。書紀は随分良い表現をするではないか。日本人は古代から詩の民族なんだなあと僕は痛感するよ。