詩人田沼の探求の終わり 十
「その次の年、つまり継体期を28年とすると、27年。書紀では24年だね。ややこしいね。磐井の死んだ時を継体天皇の死期に合わせたからこんな事になっているのは知っていても頭が混乱するね。いままでの書紀の記事は、本来28年間であった継体在位を三年間ほとんど手を加えず前方に移動させたものだと僕は思うのだ。だから僕はあえて記事の年月を書かなかったんだ。・・・さて、継体二十四年とあるが実際は継体二十七年の記事は次のようだ。
九月 任那の使いは来朝して言った。「毛野臣は遂に任那の久斯牟羅に邸宅を造って留まる事、満二年、政り事をなまけました。大和国の人が任那の人と通婚し、しきりに子を生みますが、子の帰属を争うもめ事が絶えません。毛野臣はこのことについての裁定の能力もないのです。毛野は好んで誓湯して(熱湯に体をを入れ、爛れ具合で正否を判断する事)言う。『本当である者は爛れない。嘘がある者は必ず爛れる』と。これによって湯に没して爛れ死ぬ者が多かったのです。吉備韓子那多利・斯布利(不詳。吉備氏と韓人との間に生まれた子であろうか。任那の主力倭人と思われる)を殺し、常に人々を悩まし、遂に和解する事がありませんでした。」
継体天皇は毛野の行状を聞き、人を遣わして毛野を召還しようとした。しかし戻っては来ず、目立たぬように河内御狩を京に詣でさせ言わせた。
「臣はいまだ詔の主旨を達成せず、このまま京に戻るならば、期待して送られたのに虚しく帰ることになり面目がありません。陛下におかれましては、私が任務を果たして謝罪する日をお待ち下さい」と。
使いを送り出した毛野は、自ら謀って言った。「召還役の調吉士は天皇の使いだから、もし私より先立って帰り実情を奏上すれば私の罪は重い物になるに違いない」と。そして、先立ち帰ることを阻止するために迎えの人々と共に伊斯枳牟羅城を守らせた。
」