詩人田沼の探求の終わり 九
祐司が口を挟んだ。「ずいぶん細かな描写ですね」
「これを、描き出すために書紀は、数冊の原本を使用しているようだ。してみるとだね、この記事はかなり事実に基づいていると思われるね」
「磐井の死によって筑紫倭国の任那支援が行われなくなって、いよいよ任那が急速に力を落として来たのですね。これに対処して大和国は毛野臣と多少の兵を百済に遣わして、かっての百済譲渡によって減少してしまった任那ながら、これを保持しようとします。新羅は数千の兵を百済の港から送り込んで毛野を恫喝するという構図ですか」
「そうだ、大和国の将軍毛野はあくまでも百済の側で、百済、任那と力を合わせて新羅の任那侵略を妨げようとしていることが解るな。さて、次の記事に移ろうか。
新羅の重臣、智干岐は多多羅原(今の韓国釜山南方20キロの多大浦)に宿って、三月、毛野のもとにやってこなかった。そうしながらも、智干岐は、使いを出して毛野に詔を聴かせてくれと乞うたが、そのような有様で、ついに天皇の詔は伝えられずに終わった。
智干岐の率いる士兵は村里に食べ物を乞うた。そして毛野臣の付き人である御狩の居るところに立ち寄った。御狩は住居の角に隠れて、物乞う者が行きすぎるのを待ちながら、遠い者をこぶしで打つ動作をした。食を乞う新羅の兵はこれを見て言った。『つつしんで三月を待って、詔を聴こうと望んでも未だ、伝えられない。詔を聴く使いに詔を伝えないのは、機会をとらえて重臣を殺そうという意図があるのだ』と。すなわちこの出来事を智干岐に伝えた。これを聞いて智干岐岐は金冠・背伐・安多・委陀の四つの村を落とした。その後、智干岐は村の人々と将兵を率いて新羅に帰ってしまった。ある人が言った。『四つの村がかすめ取られたのは毛野の誤りだった』と。
・・・まあ、大和国は、新羅の兵力の前に手も足も出なかったと言うのが実相だったようだね。」