詩人田沼の探求の終わり 七
「ここで、磐井が滅んだ翌年、三月の百済への多沙津譲渡に、話は戻るんだけど、この続きはこうなんだ。
押山の大和朝への伝送を受けて、大和朝は物部父根・吉士老を遣わして、多沙津を百済王に賜った。
この時、加羅王は大和国の父根らに言った。『この津は、宮家を置いて以来、臣が(大和国に)貢ぎをする中継の津(港)としてきた。なんでたやすく、改めて隣の国に賜うことが可能でしょうか。始めに統治せよとして定められた事と異なってしまいます』と。これに父根らは、面前で百済に、多沙津を賜うことは難しく、一度、大島に退き帰った。そして別に文書担当の下級官人を遣わして、百済に賜った。これによって加羅(任那)は交友を新羅と結び恨みを日本に持った。加羅の王は新羅王の娘と婚姻し、遂に子を作った。新羅は娘を送るときに合わせて百人を遣わして娘の従者とした。新羅はこの従者を加羅の各所の県に分かち置いて、新羅の官衣を着させた。任那王阿利斯等はそれを怒って、その従者を新羅に帰した。新羅は面目を失って言った。『先に加羅国が婚姻を願ったのを受けて、すでに婚姻を済ませたのである。いまのような事であるなら、王の娘を帰せ』と。加羅は答えて言った。『夫婦として合わせて、簡単に離縁することはできない。しかも子がいる。この子を捨ててどこかに行くというのはできまい』と。この事件が原因となって、新羅は刀伽・子跛・布那牟羅の三つの城、北の堺の五つの城を落とし取った。
この月に(磐井の妨害がなくなって)大和朝は近江毛野臣を安羅(加羅諸国の中心国)に遣わした。そうして新羅に命じて、奪われていた南加羅・㖨己吞地域を取り戻した。百済は将軍らを安羅に遣わして天皇の詔を聞いた。新羅は日本国の宮家(南加羅など)を占領していた事もあり、恐れて位の高い者を寄こさず下臣を安羅に遣わして、天皇の詔を聞いた。 」