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詩人田沼の探求の終わり 六

 「・・・大連おおむらじが病を理由に百済へのつかいを取りやめたので、天皇は使者を改めて百済に、四県を与えると伝えた。皇子であった後の安閑天皇は、事情があって国賜うの件に関わらなかったので、遅くこのことを知った。それで驚き後悔してこのことを撤回させようとした。そうして言われた。

『応神天皇いらい宮家を置いてきた国を軽々しく隣の国が言うとおりにたやすく与えるるはずがない』と。皇子は部下を遣わしてあらためて百済の遣いに述べた。遣いの者は言う。

『父の天皇から、この事について決定の便りを頂いております。子であるあなたが天皇の詔をむやみに違えて良いものでしょうか。あなたの言うことは間違っています。同じ杖の細い方と太い方で打つときを比べれば太い方で打つときなお痛いではありませんか。私達は太い方で打たれないように致します』と遂に百済に帰っていった。流言に云わく、『大伴金村大連と哆唎国守たりのくにもり穂積臣押山ほづみのおみおしやまは百済の賄賂を得ている』と。


 まあ、これが、継体六年(512年)に起きた事だ。僕の考察による継体二十五年(531年)の磐井の死亡の年の19年まえの出来事だよ。・・・この頃、大和王朝は、継体天皇が即位してわずか六年にすぎない。このように三韓と折衝する余裕があったかどうかと考えるとなかったと推量するよりないね。書紀は、四県譲渡の主役を継体天皇にしているが、ここでの主役は本当は磐井の父王あたりだったんじゃないだろうか?つまり、筑紫倭国の軍事・経済力は従属国任那をもはや保持できなくなっていたので百済の半ば強制的な任那四県割譲の要求を承諾せざるを得なかったというのが真実ではないのだろうか。

 こうしたことに見られる、筑紫倭国の国力衰微が、継体二十四年(530年)の大和王朝による侵略をむざむざ許したと考えるのだがどうだろうか?」

 祐司は言った。「そうですね。継体天皇は、今まで云われてきたような大和王朝の正統な王でなく、本州で多くの戦闘の末、勝ち上がってきて、古大和王朝を乗っ取った王のようですから、今度は筑紫倭国対日本国といった戦争を仕掛けたのですね。それが書紀のいう『磐井の反乱』の実情ではなかったかと僕も思います。」

「そうだよね。継体が力を蓄えてきたころ、筑紫倭国の力は衰微してきた。大和王朝は倭国の傘下にいたから、筑紫倭国に乞われるままに韓地に向け出兵する。・・・しかし、大和王軍は、筑紫に入ると、急に倭国王磐井とその親族を襲って殺害する。それが百済本紀に云う、『日本の天皇・太子・皇子、共に亡くなる』という記事の真実だったのではないだろうか。戦後、倭国はなお存続したが、さすがに三韓への力を失ったから、三韓政策は、一種の鎖国主義を取る大和日本国の意向のままになって、任那滅亡へと向かう事になるのだ」

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