詩人田沼の探求の終わり 三
窓の外に初冠雪した白い富士山が流れて行く。沙也香も声を出した。「継体天皇在位時に別の天皇一家が滅亡した事を書紀は匂わせていると言うことですね?」
「そう言うことだよ。百済本紀は、日本天皇・太子・皇子ともに亡くなったのは継体二十五年(531年)三月の事だというのだよ。百済本紀の書く天皇が僕は筑紫の君磐井であると思うのだ。そういう仮定からすると磐井が実際に亡くなったのは531年三月ということだね。
書紀では磐井の死亡が継体二十二年(528年)十一月と書いている。だから日本天皇・太子・皇子ともに亡くなったという531年三月までは二年五ヶ月の差があるわけなんだ。・・・しかし、531年の日付は百済本紀文章(書紀が引用して記載する文)から推察する月日で、531年三月のころ日本天皇が亡くなられたという伝聞があったという意味合いが強い文章なんだ。こうだからね。
ある本に云う。天皇二十八年、太歳で甲寅の年(534年)に継体天皇は亡くなられたと。それであるのに、ここで二十五年、太歳で辛亥の年(531年)に亡くなられたというのは百済本紀を取って文を作ったからである。百済本紀の文に云うには太歳辛亥の年(531年)三月百済軍は進軍して任那の安羅に到着し、乞乇城を築いた。この月に高句麗は高句麗の王安を殺した。また聞くところによると、日本の天皇及び太子・皇子、ともに亡くなられたと。この辛亥の年は継体二十五年にあたるからこれをとったのである。後に調べ考える者は真実が何かであることを知るであろう。
どうだね?少しあやふやな記述だね。『また聞くところによると』辛亥三月に日本天皇・太子・皇子が死んだと云う。と百済紀は伝聞を書いているのだ。だから、天皇などの死亡はもっと前の事だったかも知れないと思えるのだ。・・・つまり半年ぐらいの誤差はありえるね。
書紀は百済本紀のこの記事によって継体天皇の没年を三年早めて、継体二十五年とするわけなんだが、磐井の乱があったのは、実際は継体期を二十八年とした場合の二十五年だったのだ。・・・つまり継体天皇没年の三年前だね。継体期は空白の三年を加えて実際は二十八年だったと僕は思うのだが、この二十八年を二十五年に変したことによって、重要な歴史的出来事の記事は最大で三年は前に移動させざるを得なかったんだね。えーと何年縮めたかは書紀によれば二十八年二月を二十五年二月にしているようだからまる三年だね。しかし二十八年だった継体期を二十五年にした歪みは、史実の年紀に出てこざるをえない。したがって磐井の乱の年紀も三年近くも前にされているんだ。これは、当然なことで、大和朝にすれば日本天皇=継体天皇で、日本天皇=磐井ではないからね。
ここで、注意して貰いたいのは二十五年に改変された継体紀において磐井の死亡が継体の死亡の二年四ヶ月前であることだ。継体期が二十八年であるのなら、今の考察から考えると磐井の死亡は『日本天皇・太子・皇子ともに亡くなる』という継体二十五年の百済本紀の記事の年次にきわめて近くなるという事だ。磐井の乱についての記事は、古事記には『継体天皇の時、磐井の乱があった』とあるのみで、詳しい年次がいつだったかは解らない。また、他の史料も見あたらない。したがって、磐井の乱についての年次をどう書こうと、それは書紀の自由だ。書紀の気ままな記載年次においても、磐井の死亡は、日本天皇一族の死亡と近似している事は非常に特記すべき事なんだと僕は思うね。
つまり、僕は改めて断言するよ。太子・皇子と共に亡くなった日本天皇とは磐井の君のことだったとね。