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詩人田沼の探求の終わり 二

「継体天皇が亡くなったのは継体二十五年・辛亥かのとのい年(531年)なんだ。安閑天皇は継体天皇崩御の日に即位している。この年は即位した安閑あんかん天皇元年でもあるのに、書紀は、これを甲虎きのえとら年(534年)と記すのだよ。

 つまり531年といっていたかと思うと、同じ年を次には534年だと言うのと同じだね。つまり三年間を歴史の空白にしてしまっている。

 だから継体期・安閑期を西暦の年表で示すと、531年から534年まで記事がなくなってしまうのだ。それはこうだね・・・531年継体天皇亡くなる。同時に安閑天皇即位。534年安閑天皇位・・・このように矛盾した年表になってしまうのだ。

 継体天皇在位を三年縮めたあと、すぐ次の安閑天皇の在位とせずに三年間を知らぬそぶりで空白とするのは何故なんだろうか。これはね、前にも言ったけど下手に天皇の年次をいじくると、ずっと年次が後世まで将棋倒式に狂ってしまうからそれをを避けようとしているからなのだと思う。・・・と、するとだね、どうも継体天皇在位は、やはり二十八年だったと僕は考えるのだ。継体天皇在位を三年縮めて二十五年にするから、わざわざ三年空白を作らねばならなくなったのだと思うね。・・・それならばだよ、書紀編集者には継体期が二十八年であったことがはっきり解っていたはずだと思うのだよ。だとすると、なにもわざわざ、百済本紀の継体二十五年にあたる、日本天皇・大子・皇子ともに亡くなるという整合しない記事を引っ張り出してきて継体天皇の死亡が二十五年だとする必用は全然ないと思うのだ。

 

 ここで、なぜ百済本紀を書紀が引用するのかという謎を解いてみよう。

 

 ①辛亥かのとのい年『日本天皇及び太子・皇子ともに崩薨かむさりましぬといえり』と言う記事が、百済本紀とともに流布していたので、書紀記事を合わせ、矛盾を解決せねばならなかった。

 ②百済本紀は流布したものではなかったが、継体二十五年に百済本紀に日本天皇及び太子・皇子が共に死んだと言う記事があることを書紀編者は強調したかった。

 

 この二つの内のどちらではないかと思うが、①ではないと思う。なぜなら文末に、日本書紀にまれな

『後に良く考える者に真実が解るよ!』というような特異な文章があって、文章がさらに強調されているので、隠したい意志がある①は否定されるね。だから②が正しい答えだ。


 つまり、書紀執筆者は、驚くべき事に、継体王朝の二十五年、まだ在位のさなかに、百済本紀に載っているという言い訳で日本天皇・太子・皇子ともに亡くなったという記事をひっぱり出しているだ。そうして、わざわざ継体期を三年削って見せるのだが、実際は削らないなのだ。しかも『本当のことは良く考える人にはわかるよ』と謎かけするのだ。僕は詩人としてこの執筆者が憎めない。いや愛すると言っていい。こんな人生をかけた危険な文章を書く人はすごい人物じゃないか!・・・さてさて、継体でない日本天皇とは一体だれのことだろうか?大和地域の王だろうか?否。すでに百済と通交があった筑紫倭国の王のことではあるまいか?それは隋書に倭国が筑紫であることがかなりはっきりされていることでも解る。それを太安麻呂が巧妙に書き出しているのじゃないかな?


 

 

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