詩人田沼の探求の終わり 一
その日は、そこまでで祐司は帰って行った。数日、「後に比べ考える者、知らむ」の文章が、わずかに二カ所あるだけであることを田沼も調べた。そして祐司の言う通りであることを田沼は知った。
田沼は三日後、祐司と沙也香に連絡を取って、こう言った。
「そろそろ、僕らの探求も終わりそうだと僕は思う。それでどうだね打ち上げを兼ねて、青い海を見晴るかす下田東急ホテルで美味しい魚料理でも食べようよ」
四日後三人は昼過ぎJR大船駅に集まってスーパーびゅう踊り子号に乗り込んだ。幸い車内は空いていた。おつまみを開けて水割りサントリーリザーブ・ウイスキー缶で乾杯すると早速三人だけの話が始まった。
田沼が言った。「『後に比べ考える者は真実を知るであろう』は良い発見だったね!」
沙也香が声を発した。「えと、ちょっと私、詳しい話を忘れてしまいました」
「うん、そうだね、その点をもう一度確認しよう。それはね・・・」と田沼は手帳を取り出した。そして継体天皇紀の最後の条「後勘校者知之也」に関するメモを読み始めた。
継体二十五年(531年)二月、継体天皇は藍野陵に葬られた。ある本に云く、天皇は二十八年(この年紀があるとすれば534年に相当)崩りましぬと。しかるに、ここで二十五年(531年)辛亥の年に崩りましぬと云うのは百済紀の記事を取って文を作ったからである。百済紀の文に云うには、辛亥(531年)の年に百済軍は進軍し、安羅(任那の一国)に至り乞乇城を築いた。高句麗はその王を殺した。また聞くには日本の天皇及び大子・皇子、共に崩りましぬと言う。この文に従って考えれば継体天皇が崩られたのは天皇二十五年(531年)のことであるからだ。後勘校者知之也。
つまり、書紀は百済紀に記載された辛亥年(531年)に天皇が亡くなったという記事を根拠にして辛亥の年である継体天皇二十五年(531年)を、倭国の文献である『ある本』の継体天皇没年二十八年(534年)を撤回して、没年としたと書くのだね。
しかし、継体天皇が亡くなったとき、大子(世継ぎの皇子)・皇子が共に亡くなってはいないので、百済紀の記事は、継体天皇の死亡時の状況と正しく整合しない。書紀はこの点を不問にしたまま。半ば強制的に、継体崩年を二十五年(531年)と決めてしまっている。
ところが、ところがだよ驚くことに、まさに驚くべき事に継体天皇が亡くなった二十五年(531年)二月七日に同時即位した安閑天皇(継体天皇長子)元年の後記(書紀は天皇交代の元年条の末に、60年周期の太歳歴を記す)この干支がなんと甲寅(534年)なんだ。・・・つまり、百済紀によって改変しないならば、本来その年である継体二十八年(534年)にあたる年なんだよ!これはずいぶんとぼけた話ではないだろうか。そして書紀は三年間を調整せず空白にしたまま記事を続けて行くからますます変なんだよ!」