倭国とすり替わって行く日本国 四
「推古十五年(607年)時の隋帝煬帝はまだ三十代の終わりで、大運河築造や対外戦に情熱的で酒色を愛し、謀反を企てた家臣一族は皆殺しにするという、荒々しい派手な性格ながら詩を愛し詩人文人であるという側面もあって、何やら、この僕にちょっと似ている面があるんだ。(アハハ!)こうした派手な性格が国力を疲弊させて、さしもの隋を瞬く間に亡国に追い込む事になるのだな。近いうちに高句麗を落とそうと思っている煬帝の所に倭国から使いがやって来た、日の出る所の天子日の没する所の天子に書を致す。という大変失礼な国書に煬帝は激怒するのだね。そして、こんな文書を寄こす野蛮な倭国という国の文書は不愉快だから、もう二度と私の目に通すなと言うのだね。・・・しかし、そうは言ったもの、倭国は何やら興味深い国だ、利用価値があるかもしれない。文書官を視察に出してみるかと思うのだな。・・・その役を任命されたのが裴清さ。裴清が、倭朝を去るに当たって、『私の任務はすでに尽きた』と言ったのは、彼の任務が倭国との親睦でなく調査、もっと極端にいえばスパイだったからなんだと思う。
大和王朝が日本を名乗るのは、この時から少なくとも百年もあとのことだから、大和王朝のこの使いも倭国を名乗っている。それで隋朝には600年の多利思比孤王の倭国使者と見分けがつかなかったんじゃないかな。しかし賢い煬帝には、以前来た倭国の使者と態度が違う。そこで倭国調査の必用ありとも感じられたに違いない。『倭国の事が良く解らない、倭国の状況を調べよ』と裴清(書紀では裴世清)に命じたのだと思う。」
祐司は言った。「600年の第一次遣隋使は筑紫倭国で、607年の第二次の遣隋使は大和王朝だったということですね」
「そうだ。すでに述べたけど、第一次遣隋使の隋書の記事に描かれている倭国は『阿蘇山がある』を始めとして、九州にあるらしい文章が列挙されている。使いの態度も礼儀正しい。第二回の遣隋使は『日出ずるところの天子、書を致す。日没するところの天子に。あなたには恙ないか云々』という失礼な書を送っている。どうもこの遣隋使は前回の倭と違う。百済、新羅との交流になれた筑紫倭国の外交文書とは考えられな乱暴な文だ。その国とはどこか、倭国と名乗っているが、大和王朝に他ならないと思うのだ」
「そのあとの記事が隋書と書紀では異なりますね。」
「そう、隋書では裴清は献上品を持った倭国の船で隋に戻る。そのあと交流が立ち消えになってしまったように書かれているけれど、書紀には小野妹子がふたたび付いて行っている。しかも十人もの学僧も同行だ。交流はますます濃厚になっているのだね」