倭国とすり替わって行く日本国 三
「書紀のこの文はまだまだ長々と続くんだけど、忘れないうちに言っておきたい事がある。それは隋書に載る600年の遣隋使と607年の遣隋使は、おなじ倭国の使いであるのに、その国書の雰囲気が異なると言うことだ。祐司君はどう思う?」
「そうですね。そう言われてみれば、最初の遣隋使は礼儀正しいのに、二度目の遣隋使は、まるで隋国に新参のようで、しかも驕る文章で、言うなれば誇り高い中国に対してはすこぶるふさわしくない文章ですね。日が出るところの天子が日を没するところの天子に書を致す。ですからね。云うならば元気があるけど外交文書としては戦争の原因にも成りかねない悪文じゃないですか。最初のが倭国で、二度目の方が外交にふなれな日本国ですか?」
「そうだよ。隋書が書く、二度目の遣隋使が日本国のものであるなら、書紀の長々とした克明な文書である推古十五年の遣隋使の記事は納得がゆくものだと思えるね。大和朝日本にとっては晴れがましい、史上初めての中国入国だからね。この時の書紀の記事は前に言ったように、不自然なことに、ただ隋に行ったと書くのみだ。隋国訪問記事は一切なく、推古十五年七月に大和を立って翌年四月に筑紫に帰ってきたと書くのだ。裴世清はこの年九月まで滞在して、また小野妹子とともに隋に戻って行くのだね。これが第二回の遣隋使なんだが、この後に使者の隋朝における数行の記事と隋に送った学生十人ほどを書いて記事は終わる。そして多の記事を挟んだ後十七年の条に小野妹子が帰ってくる記事で終わるのだ。全体としての印象は、書紀は隋における描写を避けているように思えるのは何故だろう。」
祐司は首をひねりながら言った。「隋書が書いているように、小野妹子は裴世清と日本に帰ったけど、また隋に戻っていない。裴世清だけが隋に戻ったということですか。・・・つまり第二次遣隋使はなかったということかな?」
「そこだよ、それで隋書がこう書くのだ
世清は人を遣わして倭王に云く『皇帝の命ずるところは既に達しました。帰国の手配をお願い致します』と。それで宴を設けてのち、世清を送り、また使者を従わせ、貢ぎ物を贈った。この後、ついに交流が途絶えた。
この後、書紀の推古二十二年の条に犬上君御多鍬らを遣わした記事があるが数行で終わっているのだ。
僕は思うね。この607年~608年の時点で、大和朝と隋朝の間にはあまり深い交流がなかったのではなかったかと」