倭国とすり替わって行く日本国 二
「これに続く隋書倭国伝の記事はつぎのようだ。
大業三年(607年・推古天皇十五年)その王、多利思比孤、使いを遣わして朝貢する。使者は言う、「聞く。海西の菩薩天子、仏法を厚く興すと。ゆえに使いを遣わして朝に参上させ兼ねて仏僧数十人をつれ来て仏法を学ぶ」と。
その国書に言う。「日出ずる所の天子日を没する所の天子に書を致す。天子は恙ないか云々」皇帝はこれを見て悦ばず外相に言った。「蛮夷の書は無礼なものである。したがって、この国の書をふたたび上覧する必用はない。」
明年、皇帝は文林郎裴清を遣わして倭国に使いとした。百済を渡り、進んで竹島に至り、・・・(後略)」
これは、書紀書くところの小野妹子の第一回遣隋使に当たる年次(607年)の隋書の記事だね。ここで雑音をいれるなら、推古天皇は女帝で多利思比孤は男帝だよ。全然整合してないね!多利思比孤は推古天皇の摂政だった聖徳太子のことだなんていう説が正論となっているのは、納得がいかない。
中国唯一の女帝、則天武后が、690年に皇帝となるまでは、中国に女性の皇帝はいなかったから、侮られまいと女性が王であることを隠したという説はまあ良いとして、それならば性を隠したまま在位中の名『豊御食炊屋姫天皇の名から姫をはずせば、それで隋朝はごまかせたのに、多利思比孤と言う推古天皇と無縁の名をわざわざ名乗るだろうか。。聖徳太子の名も摂政の時は上宮厩戸豊聡耳大子《かみつみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこ》と呼んでいたはずだから、多利思比孤と言う名と無縁だね。・・・まあ、又、元の話に戻ろうか。
この隋書に相当する記事は書紀推古十五年条にある。
書紀推古十五年(607年)の条 七月三日 大礼小野臣妹子を大唐(隋)に遣わす。鞍作福利を以て通事(通訳)となす。(中略)
十六年四月に小野臣妹子、大唐より戻り至る。唐国、妹子を名づけて蘇因高と言う。大東の使人、裴世清・以下の客十二人、妹子臣に従って筑紫に至る。 難波吉士雄成を遣わして、大唐の客、裴世清らを召す。唐の客の為に、また新しい館を難波の高麗の館の上に造った。 」