大敗戦したはずなのに元気になった天智期
「最初に結論を言ってしまうんだけど、白村江で完璧に負けてしまったのに天智朝はこれにめげている様子が見られないのだね。この水没倭軍が大和王朝の軍であるなら、戦死した将兵の名を連ねる所なんだけど、書紀の記事には一切書かれていないのだ。また、戦死した戦士達への追討の文も嘆きも歌もなく、きわめてドライな文章なんだ。ひょっとすると水没した倭軍は大和朝廷軍ではないのかも知れないと僕には思えるね。ここは、まさに鎮魂の条であるべきなのに、本当に乾燥した文章だな。・・・もっとも、太安麻呂はあえてこう書いているのかも知れないね。他人事、それを匂わせるというところかな。・・・遣隋使・遣唐使・唐、新羅の百済侵略と征服・白村江の闘い、ここに登場する倭国はジキルとハイドみたいにどちらが筑紫倭国か大和倭国であるか良く解らない書き方をされている。しかし深読みすればどちらの倭であるか、唐でもめ事を起こした漢智興のように、必ずヒントが残されていると僕には思える。遣隋使に描かれる倭国は、ほぼ間違いなく筑紫倭国だ。」
祐司は言った。「その件をつめてみましょう。唐の貞観二十二年(648年)は倭国の遭難した第二回遣唐使が送られた年(大化四年)ですけど、旧唐書倭国日本伝のその年の条にはこうあるのですね。
日本国は倭国の別種なり。その国が日のはずれにあることをもって、ゆえに日本をもって名とした。あるいは言う、倭国はその名が美しくないことを憎み、改めて日本としたと。あるいは言う、日本は古くは小国で倭国の地をあわせたと。日本の人で唐朝する者は多くがおごり高ぶっていて、しかも国の由来についてまじめに答えない。ゆえに、中国はその言葉を疑う。又言う、その国の東西南北それぞれ数千里(誇大表現と考えて千里強=500㎞強)あり。西の境、南の境はみな大海に至る。東の境、北の境は大山が限りなく続いている。山の向こうは毛人の国である。
ここに描かれる地理は、まさに九州と山陰・山陽・四国・近畿を合わせた広さと整合しますね。また日本国がもとは小国で倭国を併合した。とあるのも、磐井の乱以来の事情と整合しますね。内容を良く読みますと
○日本国は同じ倭国ではあるが別の国である。
①日のはずれにあるので日本と名のった。
②倭国という名が気に入らないので日本と名のった。
③日本は小国であったが、倭国を併合したので倭国は日本国と改名した。
という、文脈で記事が書かれていますね。この記事は子細に分析すると文に乱れがあることが解ります。正確に読むと、まず前文が 日本国は同じ倭国であるが別の国である。日のはずれにあるので日本と名のった。そしてそのあとに・・・一案 倭国はその名が美しくないので日本と名のった。 二案 倭国は小国、日本国に併合されたので日本国と名のるようになった。の二者択一ではありませんか」
田沼は少し大きな声を上げた。
「二者択一でもないな!大和国は倭国を吸収したあとも『倭国』をそのまま名乗っても良かったのだ。けれど、どうもこの『倭』という字は(背が)低いと言うような意味を持つ『矮』と言う字に字形も発音も似ていて、中国人に対しては印象が良くないようだと大和王朝は思ったのだ。それで、『日本』にすることにしたのだ。少し話がそれるが『倭』という字の意味は良く解らないと言うことだ。『倭』という字は『倭国』のみに用いられる特殊な文字のようだね。・・・さてそれで文意はこうなる。
日本国(大和国の事だね)は同じ倭国であるが別の国である。日本国は日のはずれにあるので、日本と名のった。倭国はもとは小国の日本国に併合された。『倭』の国名が中国の人々には良い印象がないので、この機会をとらえて日本国に改名された。
ついでに言うけど、16世紀に作られた中国の世界地図(ウイキペディア『倭』載)に本州を日本とし九州を倭としているものがあるんだ。