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一つの倭のフェイドアウトともう一つの倭のフェイドイン

「百済が唐軍と新羅軍の挟み撃ちに会う決定的滅亡は、それ以前の敗戦から百済がめざましい回復を果たした事が原因となったんだ。新羅は百済に徹底的に攻められて、最初は高句麗と手を結ぼうとしたが、高句麗は新羅を侵略しようという意図を隠さない。それで新羅は次善の策として倭国と親睦を結び、唐に使者を出し他国との協力で百済を押さえようとする。百済に勝つためなら手段を選ばないところまで新羅は追い込まれていたのだな。この外交策が、実を結び、百済を絶滅させるという大勝利をもたらす事になるんだね。ここで不思議なのは新羅が倭国に救援を求めていることだよ。倭国は歴史的経緯でいえば、どう見たって百済+任那(加耶)と親戚のはずだろう?その親戚の敵に回ってくれと言うのは最初から無理な話だよね。だから僕はこう考える・・・つまり新羅のすり寄ってきた倭はもう一つの倭である『大和国』なのではないかとね。このもう一つの倭国『大和国』は百済・任那と他人だからね。新羅~大和は意外に近いんだ。今は京都府である日本海側の丹後半島・若狭湾は新羅と海で繋がっているのだ。・・・新羅本紀の建国譚にこう出てくるのだ。


 新羅王は瓢公ここうを派遣して馬韓を訪れさせた。馬韓の王は瓢公をとがめて言った。「辰韓と弁韓の二国は私の属国だ。それであるのに毎年の貢ぎをよこさない。大国に対する礼儀はそのようなものではあるまい」と。瓢公は答えた。「我が国は始祖が国を建ててから、世は収まり、天候は順調で、穀倉は充ち人民には礼節が行き渡っている。辰韓の遺民をはじめとして弁韓・楽浪・倭人に至るまで敬いなつかない者はいない。それでもわが王は謙虚であって臣を遣わして修好しようというのだ。礼儀が十分であると言うべきではあるまいか」と。このことばに馬韓の大王は激しく怒って武器で威嚇した。

 瓢公は言った。「これはどういうことなのだ」と。馬韓の王は瓢公を殺そうとした。しかし王の近主は王を諫め止めた。瓢公は帰国を許された。

 瓢公はいまだにその出身が明らかではない。もとは倭人で、瓢箪ひょうたんを腰につけて海を渡ってきたという。ゆえに瓠公と呼んだ。


 脱解だっかい(新羅第四代の王。在位西暦57年~80年という)はもと多婆那たばな(丹波か?)国の出身である。その国は倭国の東北一千里にある。


 

 新羅は古代から近畿地域と深い交流があったことを記事にしているのだね。倭国から千里の東北というのは、単に遠いと言うことを示したにすぎないのかも知れないが、文字通り解釈すれば、当時の一里は500㍍であるらしいから、多婆那の位置は倭国東北500キロだ。倭国が奈良あたりだとすると、東北500キロは新潟にとどいてしまう。もしもだよ倭国を九州博多あたりだとすると、丹波の丹後半島あたりがちょうど500キロだ。一世紀のころは、卑弥呼の時代の何百年も前だ、倭国とは筑紫の代名詞であった時代の事だから、新羅本紀の書く倭国は筑紫中心の国のことだね。・・・だから新羅が修好しようとした倭国は大和朝廷だったと推測できるね。それで大和倭国はどちらかというと新羅・唐の側であったから、百済・任那援助に500艘もの軍船を出すというのは不自然だ」

 


 

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