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倭国と日本国の交代。倭国衰亡の予兆。

「やがてこの皇帝の言葉は現実のものとなるのだ。別倭種(これは日本書紀がこう書いているのだよ)という漢智興かんちこうが大和朝遣唐使を讒言ざんげん(人をおとしめるための意図的な虚言)して、重罪の遠方流罪に処された。(659年)。その前後の諸国の状況は次のようだ。


 隋の文林朗裴清(はいせい)使者として倭国を訪問するに我が国(百済)の南路を通過した。 百済本紀・武王九年(608年)


 百済王、倭国とよしみ(親善)を通じる。  百済本紀・義慈王十三年(653年)八月条  (田沼注・これは百済本紀の記事だから、ここで言う倭国は恐らく筑紫倭国で大和倭国ではないと思う)


 百済・新羅、(大和国に)使を遣わして調を貢ぎ、物を献ずる。 日本書紀 白雉はくち四年(653年)六月条(田沼注・この記事は書紀載のもの。したがって、ここでいう倭国は大和国・この記事の真偽は不明)

 

 別倭種漢智興遠島、遣唐使幽閉 書紀 659年

 

 百済の福信ふくしんは、普屠ふと(田沼注・仏僧?)道深どうちんとともに兵を率い周留城に本拠を構えて新羅に対して反乱をおこす。百済は一時滅亡に追い込まれたが倭国に人質となっていた元の王子扶余豊を迎えてこれを王に立てた。 百済本紀・義慈王二十年(660年)条


 時にあたって、福信は権力を我が物とした。それで王子豊に猜疑心が生じた。福信は病だと言って、洞窟に寝て、豊の病気見舞に来る時を期として王子を捕らえて殺そうとした。豊王子はこれを知って、信ずる配下を率いて、福信を殺した。そののち使いを高句麗と倭国に遣わして唐兵を拒もうとした。 百済本紀義慈王、竜朔二年(662年)七月条


 百済の武王は自分の地位を思い違い新羅との友好を篤くせず、親戚と親しくせず、高句麗と結託し倭国と交通し、ともに好からぬ計を立て、侵入して新羅の領地を奪い。村をおびやかし、城を落とした。 新羅本紀 文武王五年(665年)の条[この記事は新唐書百済伝の記事と酷似しており、それより転記したものと考えられる]


 劉仁軌りゅうにんきおよび別師杜爽(とそう)・扶余隆(共に唐の武将)、水軍を率いて熊津江より白江に行き、もって陸軍と合流し、同時に周留城に接近した。このとき倭人と白江口で会い、四戦して皆勝ち、倭人の船四百艘を焼く。煙と炎は天を焼き、海水は赤く染まった。

 百済王子扶余忠勝(ふよちゅうしょう)・忠志ら、その衆を率いて、倭人らと共に並び降る。 百済本紀 義慈王 竜朔二年(662年)


 


  


 


 


   


 

 

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