倭国と日本国の交代。倭国の衰亡 一
「別倭種(大和の倭人と異なる倭人)韓智興と日本(大和)の遣唐使が唐で主導権を争ったのが斉明天皇五年(659年)なんだ。この第四次遣唐使は智興の家臣の讒言(悪意ある告げ口)によって唐朝に罰せられ、遣唐使の一員の伊吉博徳(史料となる、記録を残し、書紀に引用されている)によってその容疑を晴らすことができ罪を許された。しかし書紀の次の記事によってふたたび状況が変わったんだね。
書紀、斉明五年(659年)の条 事が終わった後に、皇帝の勅命が次のように下った。『唐国は来るべき年には必ず朝鮮(百済)征伐を行うであろう。汝ら倭の客、東に帰ることはできない』
遣唐使一行は遂に都、長安に足止めされ別所に幽閉された。戸を閉ざして東西に出歩くことを許さず、困苦は数年に及んだ。
・・・ひどいことに、その事件とは関わりなく、遣唐使一行は帰国も許されず、唐の都、長安の片隅に監禁されてしまったのだ。これは唐が近々に新羅と協力して百済を陥落させる計画があったからなんだ。
この時は、中大兄皇子(天智天皇)が蘇我氏を滅ぼした大化の改新(645年)から15年あとで、日本国(大和王朝)は昇る朝日のごとく新鮮で気力がみなぎっていた。彼らは隋の時から中国に朝貢していた倭国とは姿、形が異なる美しい衣裳の倭人だった。この遠来の北国のアイヌ人も引き連れた一行がどうやら倭国内で力を得てきたらしいと唐朝は知った。このまま帰国させてしまったら、百済(百済は韓半島西岸の国、唐は海上から攻めやすい)に情報が漏れることは必然で、この一行の母国、北部の倭国の臨戦態勢をも整わせてしまう事は間違いない。それだから、一行を帰国させたくもないし、唐国を見聞させたくもなかったのだね。唐国の経済力や軍力が百済に漏れてしまうからね」
祐司は言った。「大化改新のあと、中大兄王子は以前の女帝で自分の母の皇極天皇を再度天皇に据え、斉明天皇とし自身は、皇太子として実権を振るっていたんですよね。大兄皇子は父親が舒明天皇で、血筋がすごいですね」
「そうなんだ、だから大化の改新はほとんど蘇我氏に奪われていた王権を天皇主流がとりもどしたという出来事なんだね」