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日本書紀のミステリイーに挑む 二十三

 田沼は続けた。「ここまで、整合しているならば、二つの記事は、同一の事を表していると考えて良いだろうね。この時の事情というのは、新羅は百済に破れて、今度は高句麗と結んで百済を倒そうとしたが、かえって高句麗に利用されて、王は幽閉されてしまったようだ。それで、新羅は、敵対関係であった倭に融和するために王子、金春秋を遣わすと共に、人質として倭に遣わしたのだ。その人質、春秋が一年もしないうちに倭国を出て唐に救援を求めに行くというのは話に無理があるなあ。このことについて唯一の韓国古代史書、三国史記は何も書いていない。又、書記も春秋の出国について何も書いていないのだよ。しかし、三韓に学問僧を出した記事があるから、この時、春秋に、書を託して春秋とともに送った可能性がないではないな。

 この記事は第一回遣唐使(630年)から十七年後、船が難破して失敗に終わる第二回遣唐使(孝徳四年648年)の六年前の出来事なんだ。


 どうだろう?金春秋が来た倭国というのは、大和国のことでなく筑紫の倭国だったというのはダメだろうか。唐書に『倭国が起居を伝える』というのも、また筑紫倭国の事だったのではないだろうか。見知らぬ国から突然、『我が国は安寧にしております』なんて文書が来たらハテナだものね。この文書は、既知の倭国からもたらされたものに違いない。

六年後の第三回(654年)という遣唐使に非常に詳しく出自を尋ねているのは、この時の遣唐使が、既知の倭国からではないからなんだと思う。・・・そして第四回(659年)に、倭国と大和国が唐朝において主導権をめぐって争乱を起こし、唐朝に罰せられるという事件が起きるのだ。

 

 第一回遣隋使からの中国に対する訪朝の記事を以上のように検証すると、倭国が徐々に衰微して大和国が勢力を増してくるようには見えないだろうか。

 第一回の遣隋使の記事が隋書にはあって、書紀にない。しかも隋書の記事は筑紫倭国であるらしい。第二回の遣隋使(書紀では最初の遣隋使)については隋書では倭国の都は筑紫の海岸から旅程十日以内のようだ。しかも、筑紫国から以東は、みな倭に付随するの記事があるね。書紀、遣隋使の記事には中国国内における記事が皆無。登場人物はほとんど大和官人のみ。第一回遣唐使は、旧唐書記事では唐官僚高表仁が倭国にやってくるが、礼の事で争い、唐帝王の言葉を伝えられずに帰朝する。おそらくここまでは。筑紫倭国と中国との関係で、訪朝使の出自を詳しく尋ねる第三回遣唐使から中国と大和国の関係ではないだろうか。」

 

 

 


 

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