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日本書紀のミステリーに挑む 二十一  唐朝における二つの倭国の争い

 祐司は言った。「と言うことは、唐の国は、倭国と自称するこの一行を不可解な目で見ていたと言うことなんですかね?」

「そうだ。多分日本とはまだ名乗っていないから倭国と名乗っていたに違いない。なにやら従来の筑紫倭国の見知った人間と雰囲気や衣裳が異なる倭国を名乗る一行がやって来たことに唐朝は驚いて詳しくその出自を尋ね、記録したのだね。書紀の記事によれば既に大和国は小野妹子を遣わして、唐朝は大和国の存在について既知であるはずのに、この詳しい取り調べは、不自然だね。そうしたことから考えると、書紀書くところの、この三回目の以前の第一回の遣唐使が・・・二回目は難破で唐朝に辿り着いていないから三回の前は一回目と言うことだね・・・事実かどうか怪しいところがある。えーと、第一回の遣唐使と関わる旧唐書の記事は次のようだ。


 第一回遣唐使


 旧唐書倭国日本伝  貞観五年(631年) 倭国は使いを遣わして方物を献じる。大宋たいそう(唐二代皇帝)は、その道の遠いことを哀れみ司に命じて毎年朝貢をせぬとも良いと言わせた。

  又、新州(現広東省の一地域。香港至近)の長官高表仁(こうひょうじん)を倭に使節として遣わせて、朝貢の感謝を伝えた。表仁には謙譲という美徳がなく、王子と礼の決まり(着座席次など)を争い、唐皇帝の辞を伝えず帰国した。


 書記の記事はこうだ。


 舒明じょめい天皇二年(630年)八月五日 大仁犬上君三田耜だいにん・いぬかみのきみみたすき・大仁薬師恵日(くすしえにち)をもって大唐に遣わす。

 四年(632年)八月 大唐は高表仁(こうひょうじん)などを倭国に遣わして三田耜を送らせた。共に対馬に泊まった。この時に、学問僧霊雲(りょううん)僧旻そうみん勝鳥飼すぐりのとりかい、新羅の送使らが従者であった。

 十月四日 唐国の使い高表仁らは、難波の津に泊まった。(倭国は)大伴連馬飼おおとものむらじうまかいを遣わして江口えぐち(淀川河口)に迎えさせた。船三十二僧艘につつみ・笛・旗を装備し飾っている。朝廷の臣は表仁に「唐の皇帝の言葉を伝える使、天皇の朝に至ると聞いてむかえにまいりました」と言った。興表仁はこれに答えて言った。「風寒い日に船を飾って迎えて下さる事に喜びかしこまります」と。ここに難波吉小槻なにわのきしおつき ・大河内直矢伏おうしこうちのあたいやふしに命じて道案内として客館に招いた。(中略)客らはその日に神酒を飲まれた。


 五年の正月二十六日 大唐の客、高表仁らは国に帰った。送使吉士雄麻呂(きしのおまろ)黒麻呂くろまろらは、対馬に至って還った。        」

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