日本書紀のミステリーに挑む 二十
祐司は言った。「すると、隋から使節がやってきたところは、九州だったというのですか」
「そうだ。そのようにしか考えようがない。まさに書紀の推古十六年(608年)のこの条は、書紀編纂者が極限の智恵をかけて練り上げたフィクションなんだと思う。大和朝の建前からいえば、隋から遣使がくるのは、大和王朝以外にありえない。ここで徹底的に倭国を封じ込めなければ、書紀の目的の大半は失われる。創作の総力戦がここで展開されているのだと思う。幸いなことに隋書の文書には、余り詳しい名前が記されていない、書紀はここを攻めて、倭国への使節を近畿大和王朝への使節とすり変えたというわけたんだと思う」
沙也香は言った。「そうすると、失礼な文書で隋皇帝の怒りを受けたのは、筑紫倭国王朝だったのですか?」
「そうだ。そういうことだね。おそらくこの時期、大和国は隋に使いを出していないと思われるね。何故なら隋書にある第一回の日本からの遣隋使に関する記事(600年)が書紀にただの一行もないのだよ。書紀によれば推古十六年(608年)の次に中国に対して遣使を出すのは舒明二年(630年)で実に二十二年後の事なんだよ。これが書紀が言う第一回遣唐使なんだ。研究者にはなぜ前回の遣使から二十二年も不自然な間が開いたかと議論のあるところなんだが、僕は当然の事だろうと思うのだ。
舒明天皇二年八月五日(630年) 大仁犬上君三田耜・大仁薬師恵日をもって大唐に遣わす。
これもまたたった一行にすぎないのだからね。。まあ、使いが帰ってきた時の記事はそこそこあるけどね。遣唐使の記事が爆発的に増えるのは第二回の失敗(648年)の直後の孝徳天皇四年白雉三年の第三回遣唐使(649年)の時だ。第二回の遣唐使は孝徳四年(648年)に遣唐使船二隻に二百四十一名多数を載せて送られるが、七月に薩摩の南で二隻とも沈没して、わずか五名のみが生き残った。
この事件によってすぐさま、第三回の遣唐使が計画されるのだね。つまり
孝徳天皇五年二月 第三回遣唐使船が計画される。これは、見事に成功するのだが、この時の事について書紀の記事は不思議な事を書いているとさっき言ったね、次のようにだ。
遂に都にたどり着いて天子にお目にかかる。この時にあたって、文官に『非常に詳しく日本国の位置・里・国の始めの神の名を問われたので問いに従って答えた』