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日本書紀のミステリーに挑む 十八 隋書と書紀の記事の違い

 祐司が言った。「『哥多毗かたび』の件は、やはり重大な問題ですね。どうみても大和王朝が倭国である決定的な証拠ですよ。哥多毗かたび額田部ぬかたべでないことを論証しないと、我々は倭国=大和王朝説に撃沈されてしまうことになります。ここはしっかり押さえておかないといけないんじゃないかな」

「そうだ、祐司君の言うとおりだ。隋書を大和王朝が書き換えて哥多毗出迎えの記事を挿入したのだなんて言う事をいったら、僕らのこの研究もトンデモ本になってしまうからね。隋書にある『隋朝の使者、裴清を倭都で哥多毗が二百余騎とともに出迎えた』と言う条の『哥多毗』を、書紀は『額田部比羅夫』と書いて、まあ整合といえるのだけれど、実は隋書の記事にはこうあったのを思い出して欲しい。


 明年(倭国が文書をもたらした翌年・大業四年・推古十六年・608年)隋の煬帝ようだいは文林朗(文書官)裴清を倭に使とした。(中略)倭王は小徳、阿輩台を遣わし、数百人を従え、華やかな儀式用の軍服と武器を着けさせた上、太鼓を打ち角笛を吹きながら来て迎えさせた。のち十日、また大礼哥多毗を遣わし、都に向かう客を二百余騎を従え都のはずれでねぎらわせた。すでに、倭の都にたどり着いたのである。


 ・・・どうだろう、


 これを書記が書くと


 推古十六年(608年)四月 小野臣妹子が大唐より帰ってきた。もろこしの国は妹子を名付けて蘇因高そいんこう言う。

 大唐の使い裴世清はいせいせい(注・隋書に裴清はいせいとあるのは唐の第二代皇帝太宗李世民の『世』はいみなで使っては礼を欠く字とされるからである)・下客十二人、妹子臣に従って筑紫に至る。難波吉士雄成なにわのきしをなりを遣わして大唐の客、裴世清らを召す。唐の客のために、さらに新しい館を難波の高句麗の館の上に造る。

 六月十五日 客らは難波津に泊まった。この日に飾り船三十艘で客らを湾港に迎えて新しい館に居住させた。この時において中臣宮地連烏摩呂なかとみのみやどころのむらじをまろ大河内直糠手おおしこうちのあたいあらて船史王平ふねのふびとおうへいをもって接待係とした。(中略)

 八月三日 唐の客。京に入る。この日に飾り馬七十五匹を遣わして唐の客を海石榴市つばきち(奈良県桜井市)の町なかに迎えた。額田部連比羅夫ぬかたべのむらじひらふは礼の言葉を述べた。


 ・・・どうだろう、哥多毗と額田部連比羅夫の整合はまあまあとしても、隋の使者を迎える、倭の臣、阿輩台は書紀に書かれる人物、浪速吉士雄成なにわのきしをなりと、整合しないどころかかすりもしないよ!」


 


 

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