日本書紀のミステリーに挑む 十四 遣隋使についての隋書記事と書紀の記事
「はたして、小野妹子らの遣隋使が隋書に書かれる倭国の遣隋使とおなじものだろうか?同じ事を書いているとすれば、大和王朝最初にあたる記念すべき誇らしい中国への使節団が、たった一行で済まされている、無感動な姿勢に驚かざるをえないね。それはこうだね。
(推古十五年)七月三日 大礼小野臣妹子を大唐に遣わす。鞍作福利をもって通事(通訳)とす。
・・・次に、その後のこの年度の使節についての隋書・書紀の記事があるので見てみよう。
この記事は隋帝王が日出ずるところの天子の失礼な文に「この蛮国の書は無礼な所がある。二度と、朕の耳にいれるな」と言った翌年のことだよ。まずは隋書だ。
大業四年(推古十六年・608年)隋帝は文林朗裴清を遣わして倭国に使いをさせた。百済を通り、竹島(注・韓国、南岸釜山沖の島か)に至り、南に済州島を望み、対馬国を経、遙か大海に浮かぶ。また東へ進み壱岐国に至り、また東に向かって秦王国(不詳)に至る。(中略)また十四国を経て海岸に達す。筑紫国より東はみな倭に附庸(宗主国にたいして従属すること)する。
倭王は小徳阿輩台を遣わし、数百人を従え、儀礼用の刀や槍をととのえ太鼓を打ち鳴らし角笛を吹きながら来て、迎えに出た。十日後、大礼哥多毗を遣わし、二百余騎を従え郊外に出迎えた。すでに倭の都に入った。倭王は清と、対面し大変悦んで言った。
「私は海の西に非常に礼節の正しい国があると聞きました。それで使を遣わして朝貢ぎさせた。私は鄙のもので、海の隅に偏在していて、礼儀を知らぬ者である。それで国内にとどまり、参上しなかったのだ。今、特別に道を清め館を飾り、太使をお待ちしておりました。できれば隋国の大国刷新のお話を聞かせてください」
清は答えた。「皇帝の徳は天地にならび、沢が四海に流れこむようです。王は進歩を愛するがゆえに、自分を遣わして、ここに伝えるのだ。その後、清を客館に連れて行って泊まらせた。その後、清は人を使わして倭王に言った。「帝が私に下した命は果たした。帰国の準備をして欲しい」と。ここに清を宴に招き、使者に貢物を持たせて、清を送ってきた。この後、倭国と隋の交流は途絶えた。
これが、隋史に載る記事だ。次は日本書紀だ。
「推古十六年(608年)四月小野妹子、大唐(注・隋の事)より帰ってきた。唐の国は妹子の臣を名付けて蘇因高と言った。妹子の帰国にあたって、大唐の使い裴世清と従う十二人筑紫に至る。難波吉士雄成を遣わして、大唐の客、裴世清らを召した。唐の客のために新しい館を難波の高句麗の館の上に造った。
六月十五日 客達は難波津に泊まった。この日に飾り船三十艘もって江口(淀川河口)に迎えて新しい館に泊まらせた。