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日本書紀のミステリーに挑む 十三 遣隋使は倭国の使いではない

「隋書にこの頃の記事があるよ。


 開皇(隋の初代文帝)二十年(600年)倭王あり。姓は阿毎あまあざ多利思比狐阿輩雞弥たりひほこおおきみと号す。使いを遣わして隋都長安に詣でる。帝は担当の司をもってその風俗を問わせた。使者が言う。『倭王は天をもって兄となし、日を以て弟とした。空がまだ暗いときに出でて座し下臣の奏上を聞き政治をなし、日出れば、勤めを止め、弟に委ねる』と。高祖が言うには『これはひどく理屈に合わないことだ』と。ここにおいて帝は教えてこれを改めさせた。王の妻は雞弥きみと号す。後宮に女、六、七百人あり。太子を名付けて利歌弥多弗利わかみとほり(田沼注・若いお世継ぎか?)とする。城郭はない。内官に十二等ある。・・・(中略)・・・気候は温暖で、草木は冬も青く、水が多く陸が少ない。阿蘇山がある。その石には理由もなく火がおこり、天に接する。


 どうだ。『阿蘇山がある』だぞ。そして又、草木は冬も青くだ。この文章に言う倭国とは九州以外の何者でもないじゃないか。この記事は、文脈から推測するに、開皇二十年(600年)の倭王の朝貢の際の聞き取りによって作成された考えられるから、記事の内容には真実性がある。

 隋に始めて朝貢というこの事について、書記は一行も記さない。西暦600年は日本では推古八年にあたる。書紀のこの年次のあたりに、中国への朝貢の記事は見あたらない。これはどういう事だろう?この重大な自国の出来事に関して、歴史書であるならば書き漏らす訳がない。・・・と。すると答えはただ一つ、大和王朝は、この朝貢の当事者ではなかったという事だ。それは、隋書が、倭国の所在を、どうやら九州に限定しているように書いていることからも証明できる」

 祐司は言った。「そうそう出てくる山が阿蘇山なんですよね!富士山でなく、阿蘇山!」

「いくら、古代だからと言って、大和朝廷が、あの富士山の純白の雄姿を知らなかった訳がない。もし倭国が近畿中心の国であったなら、倭国の遣使は、国の誇りとする山を阿蘇山などと答えたりはせず、富士山と答えただろうから、この遣使は大和王朝の者ではなかったことが見えてくる。


 さて、隋書には開皇に続く第二代隋帝煬帝(ようだい)の大業三年(推古十五年・607年)の記事がある。この記事は、書紀の小野妹子が参加した、書紀初出の遣隋使と同じ年だから、この記事が遣隋使の事を書いたものだとする学者が多いが、それが正しいとは僕は思わない。


 隋書にはこうある。


 大業三年(607年)倭国の王、多利思比比たりしひこが使いを遣わせて朝貢した。使者いわく「海西の菩薩ぼさつ天子が重ねて仏法を興すと聞いている。それで、使いを遣わすとともに僧尼数十人をして仏法を学ばせようとやってまいりました」と。

 その使いの持ってきた国書に『日出ずる所の天子、日没するところの天子に書を送る。つつがはありませんか(平穏にお過ごしですか)云々』とあった。帝はこれを見て喜ばないで、外相に命じた。

『野蛮国の書は無礼なところがある。ふたたび、この国の書を朕にあげて来るな』と言った。 」

 

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