日本書紀のミステリーに挑む 九 別の天皇家の存在
「それは本当ですか?それが本当ならまるで嘘みたいなすごいミステリーですね!」と、祐司は驚いた。
「間違いはないさ。それじゃあ、もう少し詳しくこの事を検証してみようか?」
「そうですね」
「エート継体天皇二十五年(西暦531年)の二月七日に天皇は病気のために亡くなると言う記事がまず最初に書かれているんだ。年は八十二才だ。で、この文の後に『或る本が言うには、二十八年(年次をつけるなら534年だね)に亡くなったとある。それであるのに、ここに継体天皇が二十五年に亡くなったというのは、百済本紀の記事を採用して、書紀の文を作ったからなのである。百済本記の文が言うには、辛亥の年三月、日本の天皇・太子・皇子ともに亡くなったとある。辛亥の年は継体天皇二十五年に相当するのだ。このことに関しては後に良く調べる者が真相を知ることになるだろう』とあるのだね。ここで僕は些細な事が気になった。亡くなった月のことだ。百済本記に三月に亡くなったとあるのだから書紀は継体天皇の崩年を継体天皇二十五年三月とすれば良いのに継体二十五年二月七日としていることだね。これは何故なのかな。これについては後で言いたいことがある。ここでは混乱するので、まずはここまでだな。
書紀の安閑天皇紀には継体二十五年二月七日に安閑天皇を即位させて、その日に継体天皇は亡くなったとある。書紀は、天皇が変わると元年の終わりの条のあと、例の六十年周期の太歳を記すのだが、安閑天皇元年の十二月の条のあとに『この年太歳甲寅』とあるのだ。この年は継体紀に書かれた、継体天皇の没年、『辛亥年』の三年後だ!
継体紀では在位を二十八年(534年)二月を二十五年(531年)二月に縮めたが、安閑紀では、継体が亡くなった年を甲寅(534年)と書いて、減らした分を戻しているから驚くね。
だから、僕はこう呟く。『なんだ。最初から継体天皇が死んだ年を確実に把握してるんじゃないか!それだったらなんで百済本記などを持ち出してくるんだよ!』とね。呟いたあとではっと僕は気づくんだ。
『ひょっとすると、書紀編纂者=太安麻呂は、継体二十五年に天皇と太子と皇子が同時に亡くなったことを示したかったのではないか』もちろん継体天皇は、二十八年まで、生きているから、ここにいう天皇とは別人だ。・・・それは磐井の事なんじゃないだろうか。磐井の乱の年次は、古事記には『この天皇の代に磐井の乱があった』としか書かれていない。だから磐井の乱についての年次は書紀編纂者が適当に記そうと思えばできることだ。
『継体二十五年に磐井天皇と太子と皇子がともに亡くなった』
これが、日本書紀に太安麻呂が書きたかった事なんだよ。