日本書紀のミステリーに挑む 八 継体天皇崩年の調整の謎
今度は沙也香が声を上げた。「あら、あたし、ちょっと頭の中がグチャグチャになってしまいました。要するに、日本書紀の『大和王朝の神世以来の万世一系統を神聖なものとして、王朝を永世繁栄させる』という目的を、書紀自らが反しているという事かしら?」
「そういうことだよ。くどいようだけど、日本書紀は、書の目的から言えば、百済本紀の記事などには触れないのがベストなのに、わざわざ見つけてきたように、そのことを強調して見せている。そして、天皇一家全員死亡という整合しない記事を無理矢理強引に、継体天皇一人の死亡と結びつけて、最後にダメ押しのように『このことは良く考えてみればわかるであろう』とまで書いているのだ。ここまで書かれれば僕みたいなボンクラでも何かあるなとわかるじゃないか!・・・さらにだよこのあと、日本書紀は継体天皇の没年を三年早めて西暦にして531年にするのだけど、これをわざとまずい方法で元通りに調整して見せるのだ。下手な手品師のようにね。おどろくべきことに次代の安閑天皇元年の記事に、『この年太歳甲寅(534年)』とある。
継体天皇は531年2月7日になくなっている。しかし次代の安閑天皇が継体二十五年二月といいながら、干支によれば実際は534年2月に即位している。つまり、継体在位二十八年を二十五年にしたぶんを、ここで空白にして調整しているのが解る。この手口があからさまなんだよ」
祐司は言った。「エ、継体天皇崩と安閑天皇即位の間に満三年の空白があると言うことですか?」
「そうなんだ、太歳という年号の数え方は60年周期になっていて、これを西暦に当てはめれば、それが西暦の何年ごろに相当するか大体解るのだ。ましてこの場合のように、数年単位の誤差ははっきり解る。書紀は字面では継体天皇は継体二十五年の死んで、安閑天皇が同年、即位と書いているが、太歳歴では安閑天皇が即位した年が庚寅年(534年)で継体が亡くなってから三年後であることを、あからさまに書いているんだね。なんの事はない継体天皇紀は二十八年間であることをはっきり示しているのだ。これらあやしい叙述は、きっと太安麻呂の手口に違いないのだと、僕は確信するね」