日本書紀のミステリーに挑む 七 継体二十五年という謎
祐司と沙也香と田沼は、こう話ながらも食べかつ飲んだ。佐伯さんも、テーブルの隅で同じ食事をとりながら、話に耳を傾けていた。それはいかにも、興味がありながらも出しゃばらないようにと言う、思慮の深さを思わせる奥ゆかしさであった。田沼には佐伯さんのその姿勢が好ましかった。
「日本書紀の次のミステリーは継体天皇の死亡年に絡む記事だろうね。書紀の記事は次の通りなんだ。
継体天皇二十五年二月天皇は病が重い。この月の七日に天皇は磐余玉穂宮に崩りなされた。(ある本に曰く、天皇は二十八年に崩りなされたと。そうであるのにここで二十五年に崩りなされたと書くのは百済本紀をもとに文を作ったからである。百済本紀によれば、辛亥の年三月百済軍は進軍し、任那の一国、安羅に到達して乞乇城を造った。この月に高句麗はその王の安を殺した。この年『日本の天皇及び太子・皇子ともに崩りなされた』。辛亥のとしは、継体天皇二十五年にあたるから、継体天皇の没年は継体二十五年と訂正したのである。この事の真偽はのちに考える者が明らかにするであろう。 」
祐司は聞いた。「ちょっと解りずらい語り口ですね。それはこういうことですかね。・・・ある史書には、継体天皇は在位二十八年で亡くなられたと書かれている。それなにここで継体天皇が在位二十五年とするのは、百済の史書、百済本紀の記事を根拠としたからで、百済本紀によれば辛亥の年に、日本の天皇、太子、皇子は時期を同じくして亡くなったとある。辛亥年は、継体天皇二十五年にあたるから、継体天皇期は二十五年とした。しかしこれはかなり不確かな話であるから、後世の者が明らかにするだろう・・・と言うことですか」
「そう、簡略にいうと、そういうことだね。ただ、日本書紀のこの文にはひどく異様な点があることに気がつかないかな。なぜなら、ここでいう『或る本』とは、云うならば『古事記』級のかなり確実な内容の史書であることが言外に感じられて、日本書紀としては継体の在位は二十八年であることに、確信を持っているが、どうしても継体在位を二十五年に変更せざるをえなかったという事情が透けてみえることなんだ。ここにいう百済本紀とは、今に残る三国史記中の百済本紀ではなく、現存しない、百済本紀古記とでも呼ぶべきものだが、その百済本紀に、継体在位二十五年にあたる年に日本の天皇一族が滅んだと克明にかいているのだ。この記事は現存の三国史記中の百済本紀にはないことを、僕は調べた。おそらく書紀編纂時にはこの『百済本紀(古記)』は広く流布した状態だったのではないだろうか。流布しているという事情があると言うことで、それを訂正すべきと継体二十五年説を書紀は持ち出すのだが、ある意味これはわざと『自分の欠点』を世に曝す行為なのではあるまいか。つまり、こういうことだ、継体二十五年に日本天皇一族が亡くなったのは事実なのだ。しかし継体天皇は実際は在位二十八年で、この記事の時滅びてはいない。この記事の『日本天皇』とは継体天皇とは別の人間ではあるまいか?・・・とすると、一族亡くなったのは、継体天皇と対立する磐井のほか考えようがないのだね。・・・百済紀記事と継体天皇在位の矛盾などは、記事にしなければ、そのようなことは歴史に埋もれてしまったに違いない。書紀がここに克明にあからさまに書いている理由は、継体が本当の天皇ではないという事を表したいからなんだよ。そうさ、そうだとも・・・編纂の太安麻呂の意図はそこにあるのだ!」