日本書紀のミステリーに挑む 六
「天皇が磐井を撃てと言ったのは継体二十二年八月で翌年(528年)の十一月磐井は撃たれてしまう。こうした年号をわざわざ僕が出してくるのは、実は敗戦のあと、大和王朝によって急激に九州各地に屯倉が設けられていることが書紀に見てとれるからなのだ。ちょっと九州関連を列挙してみるよ。
安閑天皇二年(535年)五月九日屯倉を置く。
筑紫の穂波屯倉(福岡県穂波郡穂波町)
筑紫の鎌屯倉(福岡県嘉穂郡)
豊国の腠碕屯倉(福岡県北九州市門司または大分県国東半島か)
豊国の桑原屯倉(福岡県八女郡または福岡県築上郡または福岡県田川郡桑原)
豊国の肝等屯倉(福岡県京都郡苅田町)
豊国の大抜屯倉(福岡県北九州市小倉区か)
豊国の我鹿屯倉(福岡県田川郡赤村)
火国の春日部屯倉(熊本県熊本市国府付近か)
・・・省略するけれど、このほかに、兵庫に二カ所・岡山県一カ所・広島県七カ所・徳島県一カ所・和歌山県一カ所などがあげられているんだ。
これらの設置は、磐井の平定によって可能となったという説があるのだけど、僕もそのように考えるんだ。考えてみれば兵庫も岡山と言った地域も磐井の支配するところだった可能性があるね。反対の視線でいえば、屯倉が設置された地域は、それ以前は大和王権の力が及ばなかった地域と言うことを表してはいないだろうか。
ところでこのようなことが裏読みができる記事というものは、日本書紀の編纂としては失敗しているとは言えないだろうか?なぜなら日本全土は神代の昔から天皇の支配する所であるといの建前が、ここでは、完全に破綻しているからなんだ。」
祐司は声を上げた。「解ったぞ!先生が何を言いたいか。この条に、くどいくらい新設の屯倉を並べ立てているのは、太安麻呂の意図だってことが!」田沼はそれに答える。「太安麻呂がひそひそと言う声が聞こえるようだな。『筑紫はねこの時まではね大和王権の及ばない地域だったのだよ。なぜなら倭国とはこの地域の国のことだからね・・・』太安麻呂はいろんな条で謎をかけてくるのだよ!」「どうしてなんですか」
「詳しい理由はわからないよ。そりゃ、太氏の出自が、筑紫出身の神武天皇であるから、筑紫と深い関係はあるけれど、だからと言って倭国隠蔽を暴露することはないだろう。太安麻呂はようするに非常に良心的な歴史家であったということかな。それで嘘で固めた書紀の記事の裏にひそかに真実解明のためのヒントを沢山ばらまいたのだ。その一つが、この異常な屯倉の羅列だよ。次にもっとすごい書紀の謎かけを検証してみよう」