日本書紀のミステリーに挑む 五
「まあ、これらの史料が磐井の乱(527年)について僕らの手にすることができる史料のすべてなんだ。周辺の史料としては漢書に、倭の武王の宋王朝への上表文(478年)書紀に血統の薄い継体天皇の即位(507年)任那四県を百済に割譲(512年)任那の一郡、伴跛と物部軍が戦闘(515年)などがある。
この時代は、詳しい実情は不明だが任那が百済や新羅によって滅ぼうという時代なんだね。大和朝は百済+任那を救おうと出兵する。それを新羅と磐井が妨げようとする構図が見えないかな?まあ、妨げようというより、水軍は筑紫水軍なんだからサポタージュというのが真相かもね。
まず、一番最初に注目したいのは、日本書紀の記事だね。継体天皇が磐井を攻めるに当たって、天皇の壮絶な決断が注目されるね。物部の麁鹿火に(僕は本当は大伴金村だと思うのだが、これは後で検証しよう)『国家存亡はここにあり。すべて任すから全力をもって事にあたれ!勝利の暁には筑紫より西は汝のものだ!』と言うような事をいうのは、この戦いがいかに困難な状況にある闘いであるかを表しているんじゃないかな。磐井の軍は『国造本紀』に『磐井に従う新羅の海辺人』とあるから、どうやら筑紫の軍と新羅の水軍の連合軍のようだ。だから日本書紀においても、筑後風土記においても、磐井の近辺に強兵が少ないときに、だまし討ちのように殺されたように読み取れる。このようなだまし討ちのようにしてしか大和軍は勝てなかったのではないだろうか。それが証拠に書紀に描く凄まじい、大和国と磐井の闘いは、そっくり中国の『藝分類揫(七世紀成立の中国の作文参考集)から美文を引き写してきた物であることが解っている。ここで書紀はフィクションを描いているのだ。『大和軍が勝った』というのもすこぶる怪しい。なんと戦果が、磐井の死と、少々の土地の贈呈に過ぎないからだ。『大和勝利』というより交渉による和平に近かったことが推測できないだろうか。少々の土地の贈呈で、磐井の息子の死罪は許されているし、勝利によって将軍に『筑紫から西の土地の全権』が与えられたという記事がどこにもないのだからね。ただし、磐井の死後、筑紫各地に、大和朝の領地兼軍兵の在所である『屯倉』が続々新設されることが書紀の記事に見られることは、報告しておきたいね。たぶんこれは事実だろうね。独立的だった筑紫の国が『磐井の乱』終局のあと徐々に大和王朝の管理下に入っていたというところだろうか。