日本書紀のミステリーに挑む 四
「磐井に関する文献はあまりないのだけど、書紀や古事記などをつぎはぎした偽書ではないかと言われる 『先代旧辞本紀』(・・・平安中期から江戸中期まで古事記・書紀より重要な歴史書とされていたが水戸光圀などによって偽書説が唱えられた。しかし他書にはない神名や物部氏の詳しい歴史が記載されており、失われた物部家の文献が引用されているのではないかという説もあり一見の価値のある文献だな。成立は800年~900年ころと見られるね。この書に序文があるそうだけど、今は手元にないので後述するよ)の全十巻中の第10巻の『国造本紀伊吉島造の条』にも、磐井に関する記事が載せられているんだ。それはこうだ。
磐余玉穂の朝(継体天皇朝)石井に従う新羅の海辺人を撃つ。
磐井に関するもう一つの文献は『釈日本紀』に逸文として載る『築後国風土記』だな。それにはこうある。
筑後風土記に曰く。上妻の県の南二里に、筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈(注・古代では一丈は3.3㍍)、周り十丈墓田は南北各六十丈、東西各四十丈、石人石盾各六十枚、それぞれ連なって行を作り、四周を囲んでいる。東北の角に一つの別区が設けられている。名付けて衙頭という。(衙頭は政所《注・豪族の事務所ともいうべきか》である)。その中に一つの石人あり。従容(ゆったりとおおらかに)地に立っている。名付けて解部という。その前に一人の石像があり裸形で地に伏している。名付けて偸人という。(生きているときに猪を盗み、これによって罪を決められようとしている)その側に石の猪が四頭あり、名付けて臟物という。(臟物とは盗品の事である)そのところに、また石馬三匹、石殿三所、石蔵二所がある。
古老が伝えるには、継体天皇の世に、筑紫君磐井、強くして暴虐、皇風に従わず、生存中にあらかじめ、この墓を造った。にわかにして官軍おこって磐井を撃とうとするときのその勢いに勝てないと知り、一人豊前の国の上膳の県に逃れ、南の山の険しい嶺のきわみに終わった。この時官軍は磐井を追い尋ね見失って兵の怒りやまず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち落としたという。古老の伝えて云うには、上妻の県に重い病があるのは、このことによっているのかと。」