日本書紀のミステリーに挑む 二
田沼は手帳を取り出した。それを時々見ながら言った。「古事記には磐井の乱について継体天皇の紀に
この御世に、筑紫の君石井、天皇の命に従わず多く礼なし。ゆえに物部の荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣わして石井を殺すなり。
と、あるのみなんだ。だからこれだけでは、具体的に何があったかわからないね」
「そうなんですか?たったそれだけ?」と沙也香。
「そうなんだ、これだけ。これにくらべて日本書紀では磐井に関する記載はもっとずっと多いのだ。それはこうだよ。
継体二十一年(527年)六月三日 近江の毛野臣は衆六万を率いて任那に行って新羅に破られた南加羅・」㖨己吞をとりかえし復興し任那に合わせようとした。筑紫の国(福岡県東部を除いた全域)の造磐井は以前からひそかに叛く事を謀って心に思っていた。しかし、事が成功しないのを恐れてその機会を窺っていた。新羅はそれを知って秘かに賄賂を磐井の所に送り、磐井に毛野の軍を妨げよと勧めた。磐井はこれに乗って火の国(熊本県)豊の国(福岡県東部・大分県全域)を襲って、職務を放棄した。外の国への通行については海路を封鎖し高麗・百済・新羅・任那の国の年ごとに貢ぎ物を奉る船を誘いこみ、国内については任那に遣わす毛野臣の軍を遮って、声高に荒々しく言った。『今は(大和の)使者とされているが、(・・・原文はー今為使者ーだから、この訳で良いと思う。ー為すーは、ーされたーという使役の意味があるんだ)昔は私に伴わせて(これも原文はー昔為吾伴ーだから、通常の訳、吾が友としては間違っているね。伴は友として解釈出来ない。ー昔、私の従者をさせてーだね。ちなみに毛野という地名が九州にもあるから、毛野臣は九州出身である可能性がある)肩すり肘ふれあいながら、同じ器で、ともに食事したものだ。にわかに(大和の)使者になったからと言ってお前に私を従わせることがどうしてできるであろうか。できはしない』と言って、毛野に従うことをせず闘った。磐井は驕りたかぶって、毛野臣を遮り、新羅遠征は中途にして停滞した。」
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