葉山の海岸を歩く 三
「それで一時は、僕も私記序文は偽書ではないかと考えたんだが、それでは太安麻呂が日本書紀を編纂したという説が破綻してしまう。僕は、日本書紀の数々のミステリーを作り出した特定の人間が必ず存在したと思っているんだ。この人物に藤原不比等を当てる研究者もいるが、僕は太安麻呂がふさわしいと思うのだ。日本書紀に存在するミステリーについてはこれから明らかにして行くつもりだけど、その前に、日本書紀という隠蔽と暴露のミステリーな構造体をつくり作り出している『犯人』候補として安麻呂を逮捕しておきたいのだ。それというのも僕が思うに太安麻呂には、他の人にない『犯人』の匂いがあるからなんだ。・・・しかし、僕は太安麻呂を犯人に仕立て上げるために、まさに強力な証拠を見つけたんだ。
日本書紀の宮廷講義最終会は、宴会と歌会を伴っていたようだ。歌会の歌を集めたものが序文とともに編集されて『日本紀竟宴和歌』になっている。ここに重大な証拠があるんだ。・・・ちなみに竟宴は終宴という意味だ。竟という字は現在では使われないが終わりという意味がある。だから解りやすく言えば打ち上げ飲み会さ。
江戸時代安永8年(1779年)に塙保己一が古書の散逸を危惧して3376種計1851冊の古書を集約した膨大な『群書類従』と『続群書類従』を編纂した。この続の方に、『日本紀竟宴和歌』の逸文が記載されているのだ。この記載に以下のような文章が見える。ちょっと切れ切れだけど採録してみる。
従五位下大内記・周防権介 三統好宿禰利平 (853年~926年、官人、漢詩人)
日本書紀は一品舎人親王従四位下太安麻呂などが天皇の命により撰上したものである。神代は上下紀。帝世二十八紀。すなわち三十巻なり。編纂に成功し、その任を果たしました。・・・(以下略)
日本紀竟宴和歌 天慶六年 橘朝臣
元正天皇の御代。一品舎人親王と従四位下太朝臣安麻呂に勅す。(以下略)
養老五年始講 博士従四位下太朝臣安麻呂
弘仁四年講 博士刑部少輔太朝臣人長
承和十年講 参議従四位上滋野朝臣貞主
元慶二年講 序教従従五位下善淵朝臣愛成
延喜四年講 紀傳博士谷田部公望
書の末には、養老五年、書紀が完成した翌年、講義の博士も太安麻呂が勤めたことを書いているのだ。ここには、日本書紀と異なる、太安麻呂があらわれているね。どうだ、これだけの史料を前に、日本書紀の記事が正しいと思えるだろうか」
祐司は言った。「結構、太安麻呂が、書紀外の史料では活躍していますね。それが書紀や続日本紀に記載なしですからね。驚きますね」
「これだけ、太安麻呂の活動を示す文章が残されていながら、書紀作成に太安麻呂の名がないのは不思議だよね。一応、太安麻呂が書紀作成に中心的な立場で関わったと考えて良いのではないかと思うんだよ」