葉山の海岸を歩く 二
祐司が言った。「すると、日本後記の弘仁の書紀講義と私記の書紀講義の記事はぴったり合っているということですね」
「そういう風に結論つけていいだろうね。もう一押しして日本書紀私記序文が、かなりしっかりした歴史的事実を表記していることを確認してみようか。
日本書紀私記序の文中に『冷然聖主弘仁四年在祚之日』・『冷然聖主弘仁十年』とあるが、冷然聖主は嵯峨天皇譲位後の名であって、弘仁十年に嵯峨天皇は冷然聖主と名乗っていたわけではむろんなく、嵯峨天皇譲位後に嵯峨天皇弘仁十年と書くところを冷然聖主弘仁十年と書いているのだ。
したがって、冷然聖主という名が記されている文は間違いなく弘仁十四年以降の文章だ。こういうことで私記序文の作成は弘仁十四年以降だと判断できるね。
また私記序には、官位が、実際と違うことが見いだされている。弘仁三年~四年次の、人々の官位について言えば
[刑部少輔]従五位下多朝臣人長(私記序載)は日本後紀ではまだ役がついてないという意味の散位であって、役職である刑部少輔にはなっていない。
[大外記]正六位上大春日朝臣頴雄(私記序載)は弘仁五年(814年)二月に下位の小下記出あった。(類聚符宣抄載ー天平九年・737年~1093年の官報・宣司などを集めた法令集)
民部小丞正六位上藤原朝臣菊池麻呂([従五位下]是人第四男也)(私記序載)については是人は延暦四年(785年)八月すでに従五位から従五位上に昇っている。
[文章生従八位上]滋野朝臣貞主([従五位上]家譯一男(私記序載)については貞主の卒記(死亡時の記録)によれば弘仁二年すでに小内記に任じられている。小内記の位は正八位上で、従八位上ではない。
これらの記事から、私記序文の作成がずっと後世であって偽書ではないかという説があるんだけど、私記序が講義から10年もすぎた弘仁14年に書かれた事を考えると、こうした間違いはありえるね。偽書ならばかえって間違いを正して偽書であることをかくそうとするはずで、アバウトなのはかえって本書であることの証明かもしれないね。
とくに注意すべきは『無位島田臣清田・無位美努連清庭』の最下位の者の実在が確認出来ることなんだ。(外記補任載)・・・大きな所をほったらかしにして、細部で合っているというのは、執筆姿勢が自然体であることが現れてはいないだろうか。だますつもりならもっと徹底するに違いないことを確信するね」
陽は既に海に没しようといていた。沙也香は言う。「つまりこうですね。弘仁の書紀講義出席者の位階について、書紀私記序文は間違いが多いと言うことですね」