葉山の海岸を歩く
三人は砂浜を逗子方面にそぞろ歩いた。夏の白い日射しも夕方近くなって柔らかくなった。吹いてくる潮風が気持ちよい。沙也香は白い日傘をさしている。三人は砂浜から海岸の道に上がる階段に腰を下ろした。日も落ちかかっている小さな浜だから海水浴客もまばらだ。
田沼は呟くように言った。「『日本書紀私記甲本の序』は太安万侶の数代後の多人長が恐らく書いたに違いないが・・・そうでないかも知れない。というのは『日本後記』に記された弘仁の講義に出てくる関係者と『日本書紀私記甲本の序』に記された関係者が異なるからなんだ」
田沼はポケットから手帳を取り出してページをめくった。
「エート・・・ああ、これだ」
田沼はノートを見ながら言った。「日本後記弘仁三年六月の条の朝廷における書紀の講義の出席者が紀広浜・陰陽頭阿倍真勝ら十余人と講師の多人長なんだけど書紀私記甲本序文に書かれる弘仁四年の条・・・甲本序には日付は記されていないんだ・・・の講義の出席者は大春日頴雄・上藤原菊池麻呂・上安倍蔵継・滋野貞主・無位嶋田清田・無位美努清庭と講師の、多人長だ。これをくらべてみると、同一なのは講師の多人長のみだよ。
また、日付も一年の違いがある。はたしてこれはどういうことなんだろうか?まず日付なんだが甲本序に
開講席 一周之後 巻袟既意 (一年為周)
つまり『講義を開いて一年後に巻を包みすでに納め終えた』と言う意味の文があるから、講義に一年をかけたということだね。したがって弘仁三年六月に開講した講義は弘仁四年半ばに終了したから、年次の差異は問題にしなくとも良いだろう。
次に講義の参席者の差異についてだが、日本後記には上位の参議・陰陽頭二名のみを記して、その他『十余人』とあるが、私記序は官位を優先する国史、日本後記の叙述によらないで地位は低いが講義の実質の『十余人』の参席者を書いていると考えられるね。そして講義の博士は同一で多人長だ。だから、この差異は国史という立場の記述と、研究現場としての記述の差異なんだな。実際には講義にほとんど出てこない高官を私記序は省いているということだから、この差異は容認できるね。
結論としては、弘仁の日本書紀講義は、嵯峨天皇の命により弘仁三年(812年)六月、多人長を博士として紀広浜・安倍真勝を筆頭として私記序の六人を含む十人余りが参席して、翌四年半ばに書紀全巻の講読を終えたのだね。書紀全巻は今の文庫本にすれば約一千ページ・・・三百ページで二㌢厚の本だね、これが三冊分だね・・・しかも全漢文、一日平均三ページ分を読み進めねばならないのだから、紀広浜・安倍真勝という高官に出席は相当無理だな。彼らには連日のように朝廷歳事があるのだから、当然名ばかりとなるだろうな」