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海外の記事がない古事記

 ここまで来て田沼は手の平で顔をしごいた。そして言った。「・・・僕が古事記を日本書紀のオリジナルだと思っているのを沙也香君は知っているよね。ところが日本書紀の原型でありながら、古事記には、漢書や韓国史書に現れる倭国の記事が、あたかもぬぐい去ったように記載されていない。これはどう考えてもおかしい。意図的に削除したのだろうか?それとも書き忘れたのだろうか?・・・この謎を解くには古事記序文と古事記本文の年代的なずれがヒントになる。序文には太安万侶の名と作成年代が次のように記されている。


 おおかた記すところは、天地の開けしより始めて小治田おわりだの御世(推古天皇の代・593年~628年)に終わる。(中略)あわせて三巻を録して、謹しみて献上いたします。臣安萬呂恐れかしこみ申す。

  和銅五年(708年)正月二十八年  正五位上勲五等 太朝臣安萬呂 


 どうだね古事記を選上したのは708年。記事は628年までだ。しかし記事と言っても仁賢にんけん天皇(488年即位)からは系図のみだから、安萬呂の序が本当ならば、随分手抜きの史書とは言えるんじゃないかな。本文と序文のあいだに随分年代の開きがありすぎないかな。これは考えるに、本文と序文は別なものであった可能性が高いね。古事記の安萬呂の手になると言う序文を外して考えると、その内容からみて古事記は随分古いものなのではないかなと考えられる。しかし、古事記には神功皇后の海外進出もたった一つの場違いのような記事とされているのだから、おそらくこれは対外記事の一つもなかった元古事記に後から、太安麻呂らによって付け加えられたと考えられるね。

 つまりはだね、元古事記には海外遠征の記録がなかったとすると、海外の史書が伝える『倭国の侵略』は嘘なのだろうか。それは嘘かも知れないが、414年建立の広開土王碑の碑文はほとんど疑いようがない。広開土王の在位は392年から412年らしいのだが、その実績を記念して息子の長寿王が、現在の北朝鮮の北端、白頭山麓に建てたものがこの碑なんだ。これに刻まれている倭の進出と支配が古事記には跡形もない。これをどのように解釈したら良いのだろう?ここに僕は、大和王朝は倭国ではないと判断するわけなのだ。倭国とは何か・・・それは継体天皇によって滅ぼされた磐井の王国だ。

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