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雄略=倭王武説を追う 二

 沙也香は言った。「倭王武が宋に上表文を送った事が宋書に出ていて、それは478年の事なんですね。雄略天皇が亡くなったのが479年ですか・・・この、年代はあってるのでしょうか?」

「おおむねという事になるね。細かい年ごとの記事にも、創作が多分にあると考えても良いのではないだろうか。雄略五年(461年)の武寧王の事もそうだけど、雄略七年(463年)の記事に次のようなものが見えるんだけど真実かどうかはわからないな。


 吉備上道臣田狭きびのかみつみちのおみたさが、雄略の御殿の近くに侍っていて、さかんに、妻の稚媛わかひめについて『天下の美人でも、俺の婦におよぶものはおるまい。にこやかで明るく輝き、きわだって愛らしい。化粧の必要もなく、久しい世にもたぐいまれな抜群の美女だ』と友に語った。天皇はこれに耳を傾けて、心中喜んだ。稚媛わかひめを求めて女御にしようと思われて、夫の田狭を任じて[任那みまなの国使]とされた。それからしばらくして稚媛を天皇は召し入れた。田狭と稚媛の間には兄君と弟君の二人の子がいた。田狭は任那で天皇に妻を奪われたことを知り、敵対する新羅に援助を求めて接近した。

 天皇は田狭臣の子である弟君と吉備海部直赤尾きびのあまのあたいあかおとに命じた。『あなたは、行って新羅を討て』と言われた。

 その時、西漢才技こうちのあやのてひとがお傍にいて進み出『彼らよりもっと適任な者が韓国からくににはたくさんおります。召し出して使うべきです』と言った。


 まだ続くよ」と言って、田沼はコーヒーをごくりと飲んだ。喫茶店の窓辺からも道の紫陽花が見えている。

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