雄略=倭王武は本当か?
二日後、早朝沙也香がやって来た。鎌倉の紫陽花をみたいという事なので、田沼は朝早く来るように言っておいた。田沼の自宅のある江ノ電稲村ヶ崎駅から、海が眺められる、あじさいの寺、成就院のある極楽寺駅まで一駅である。
「歩いてすぐだよ」と、田沼は沙也香に言った。
「そうなんですか」と沙也香は、歩きながら答えた。
「紫陽花が咲く頃には、観光客もどっと出るのでね、僕は苦手だよ。紫陽花見るなら早朝にかぎるよ」
朝八時、二人は境内に入った。成就院は少し高い丘の上にあって、紫陽花が道の両方を飾る向こうに由比ヶ浜の湾曲した海岸線が見えた。
「まあ!素敵!ヨーロッパのリゾートの眺めのようですね」
「うん。紫陽花のないころは僕の散歩道だよ。さてそこらでお茶でも飲もうか」
「そうですね」
極楽寺駅から少し離れた所に静かな喫茶店があった。二人はそこに入った。コーヒーが運ばれてきた。
「先生。テープ聞きましたよ。良い方向に進んで入るようじゃありませんか」
「ありがとう。沙也香君にそう言って貰うと心強いよ。・・・ところで祐司君との話はすすんでいるのかな」
「あら、やですね。何も祐司さんと私は恋人宣言したわけではないですよ」
「おや、これは失礼。人生は長くはないのだから・・・」
「まだ、ごちゃごちゃ言ってますね」沙也香は田沼をメっと可愛く睨み付けた。
「あ、いや、それは君たちの事だ。僕が若かったら君のようなチャーミングな女性は放っておかないのになあ!やれやれ!・・・さて、作品の話をすすめようか・・・(田沼は手帳を出した)録音で聞いたろうが、宋書によれば倭王武が宋の順帝に上表文を478年に出した。その上表文の内容は録音にあるとおりなのだが、この時期、新羅本紀によれば五年に一度くらい倭は新羅を侵略しているのだ。雄略を倭王武とする説は教科書にも載るくらいだが、書紀によれば478年は雄略天皇22年にあたる。翌年の23年雄略天皇は四月に亡くなった百済文斤王の跡継ぎとして大和国に人質となっている百済王弟の五人の子の二番目未多王を筑紫の兵士五百人を護衛として百済に送り出している。しかし七月には雄略天皇は病気になり八月には亡くなった。・・・なんだかチグハグとはおもわないかな。雄略が元気がなくなった晩年、倭王武は勢いの良い上表文を宋に出している。ちなみに百済本紀には428年から608年のあいだ一切の記事は全くないのだけどね・・・。だから雄略=倭王武説は簡単に了解できはしないのだ」