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佐伯さんの作った夕食 六

「あ、この攻めかたはいいなあ。つまり外堀から埋めて行くというやり方だね。書紀のここら辺の記事はあまり正直とは思えないからね。海外の史料で組み上げて行けば当時の日本列島の実像が見えてくるのではないかな。中国史書の倭の五王の記事などをもう少し読み込んで行くと、当時の倭国の姿がほの見えてくるはずだ」

 祐司は、田沼の話を聞きながらも佐伯さんの旨い料理を黙々と食べ、桜正宗を飲んでいたが、それではあんまりなので言った。「そうですね、書紀の雄略から継体期は、まさにフィクションにまぶされている感じですから、ここは海外史料、特に中国の史書によって、日本の国内状況を推測するのは良いことですね」

「ありがとう。そう言われると心強い。よし、それではもう少し突っ込んで行ってみよう。まず宋書・倭国伝の世祖(第四代孝武帝454~464年在位)の大明六年(462年)の条だ。


 世祖は言う。 『倭王の世子(世継ぎ)興については、倭国が累代、我が国に忠であり、属国を外海に作り、状況変化にも国境を保持し、恭しく貢ぎを納めている辺地の仕事を新たに継いだ。よろしく、安東将軍・倭国王の称号を授けるべきである』と。興が死んで弟、武が立ち、自らを使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称した。

 順帝の昇明二年(478年)、倭王武は使いを遣わして表(文書)を奉った。いわく

『我が国は遠く隔たった辺境にありますが、藩(臣従した諸侯の国)を外国に作っております。古くは先祖自ら甲冑を着て山川を渡り歩き、安らぐ時もありませんでした。東は毛人アイヌ五十五国を征し、西は衆夷しゅうい(筑紫の熊襲くまそ隼人はやと)を服すること六十六国、海(内海?)を渡って海北を平らげること九十五国、王道はむつまじく平安であり、開墾し畿(都周囲)を遙かに致しました。代々中国に朝貢し、朝貢するに年を飛ばすなどという事もありませんでした。臣(倭王武)は愚かではありますが、かたじけないことに先代の事業を引継ぎ、統べるべき所は駆り立てて朝貢のための船をもやい整え港を百済に整備しました。ところが高句麗は無道で奪う事を計り、近辺の庶民をかすめ取り、殺して止むことがありません。それで朝貢は滞り、良い風をとらえ損ない、航路に進んでも、目的地に到達したりしなかったりしました。臣の亡父、済は高句麗が天朝への道を閉じ妨げるのを怒り、弓兵百万が正義の声に揺り動かされるをもって、高句麗を攻めようとしましたが、にわかに父兄を失い、功を立てることは失敗に終わりました。倭国はその後ながらく喪中にあり事の実行に移せませんでしたが、今やっと、甲冑と兵を整え、父の意志を遂げたいと思います。(後略)』」






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