佐伯さんの作った夕食 五
「恐らく、この『人物画像鏡』は、今言った文面のような状況で継体王を支えるため武寧王が作らせて贈ったものと考えても良いのではないだろうか。この時503年は、武寧王即位の翌年で527年に磐井の乱が起こる24年ほど前だ。『人物画像鏡』の中に現れる『日十大王』という名は、ひょっとすると、これは全国を支配する筑紫にいる倭国王の名ではないだろうか。この文面から読み取れることは、継体王は、あたかも地方国の王であるように読める点だ。武寧王と継体王が、日十大王そっちのけで親しくしているのだね」
祐司は言った。「百済から倭王に贈った七枝剣にも倭王旨という名がありましたね。どうも倭王は倭の五王でもそうですが、倭讃・倭珍・倭済:倭興・倭武といった名をつかっていたようですね。これからいうと日十というのも『ヒト大王』と呼ぶのかもしれないですね」
「そうだね。鏡や刀に刻まれた王名は不思議に一文字だ。一文字王名を歴代天皇に当てはめようとするのはどうも不自然な感じがついて回るね。中国史書は、諸外国の王名・個人名をやたらに変えて記載したりはしていないのに、これを(むりやり)日本書紀上の天皇に当てはめようとするのは間違いではないだろうか。僕は思うのだがね、諸外国の史料記事と、日本書紀の記事はほとんどすれ違っているように判断できるのは何故だろう。・・・このことを、あまり中途半端に考えない方が良いと思うのだ。甚だしいのは『倭の五王』の問題だな。一口に『倭の五王』と呼ばれているが、五王の記事は一つの史書にまとめて書かれている事ではないのだ。それを書き出してみると(田沼手帳を取り出す)
413年 倭王讃、晋の安帝に貢物を献ずる。 晋書
421年 倭王讃、宋の武帝しに朝献し安東将軍倭国王の称号を得る。 宋書
425年 倭王讃、司馬曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。 宋書
430年 倭王、宋に使いを遣わして、貢物を献ずる。 宋書
438年 倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自称『使持節都監倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍安東大将軍倭国王』を名乗り、宋王に正式の任命を求める。 宋書
4月 宋の文帝は珍を安東将軍倭国王に任命する。 宋書
珍は加うるに、家来の倭隋ら13人に称号を求め許された。
443年 倭王済、宋の文帝に朝献して、安東将軍倭国王と称号を受ける。 宋書
451年 倭王、宋の文帝から『使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓六国諸軍事』の称号が追加される。安東将軍はもとのままとなった。
462年 宋の孝武帝は倭王済の子、興を安東将軍倭国王とする。 宋書
477年 興没し、弟の武立つ。武は自称『使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓七国諸軍事安東大将軍倭国王』と名乗った。 宋書
478年 倭王武は、宋順帝に称号を求めた。宋順帝は倭王武を『遣持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王』とした。 宋書
479年 南斉の高帝、王朝樹立にともない倭王武に『鎮東大将軍』の称号を贈った。 南斉書
502年 梁の武帝、王朝樹立に際し、倭王武に征東大将軍の称号を贈る。
どうだい、中国にとっては、讃・珍・斉・興・武はある名前を省略して使っている名前なんかじゃないようだ。国が変わって、呼び名の変動があっても良さそうだが、名は揺るぎもない。これは、王名が原史料によっているとしか考えられないね。・・・それはそうとして、この倭の五王の年代と倭の新羅侵略の年代を照らし合わせると、それが真実なら、倭国は随分と対外活動に忙殺されていたと考えられるね。これは、ちょうど大和朝廷が、飛鳥で小さな宮を転々とさせていた時期であることを考えると、すごく変な感じじゃないかな?」