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佐伯さんの作った夕食 三

祐司はだまってそれを聞いていたが、口を開いた。「先生はここで、筑紫を主とした倭国の存在を示したいのですね」

「そうなんだ。かくも多くの倭人の新羅侵入の記事が、歴史の浅い新羅の歴史を長大に見せるための、創作であったという説があるが、それらの記事の三分の一でも真実であるならば、倭人は相当ひんぱんに新羅を襲っていたと言える。僕が引用した『百済本紀』は韓国が統一新羅滅亡後、日本の平安末期(12世紀)にあたるとき高麗という国が編纂したものだが、八世紀に成立した書記に引用するところの『新羅本紀』は、『新羅本紀・古記』とでも呼ぶべき別の古書なんだよ。だから当然、書紀が古書群の記事をゆがめて創作したように、高麗の手になる『三国史記(新羅本紀・高句麗本紀・百済本紀)』も、高麗の国益にそうように創作されているんだよ」

「だから、多かった倭の侵入の記事が武寧王の頃になると突然消えてしまったり、広開土王碑に見られる倭国と高句麗の戦役の記事がなかったり、武寧王の倭国との関わりが書かれていなかったりするのですかね」

「そうなんだ。そうなんだ。日本書紀にも創作があるが、三国史記はもっと創作・欠落があるということなんだ。つまりわれわれは信頼するにたりる、5世紀~6世紀の史料を持ってないということだね。それで、いろいろな人が、かってに推測することが横行することになる。しかし、僕は歴史の専門家ではなくても、勝手な場当たり的な手前味噌な結論を出したくはないのだよ」

「先生の考えの根幹は、高句麗や新羅と戦い、百済を助けた倭国が、飛鳥の地で小さな都を転々とした大和王朝であるわけがないということなんですよね」

「そうだよ、大和王朝の弱小さから抜け出すためには、6世紀の藤原京創建あたりを待たなければだめなようだね。・・・このあと、継体天皇や磐井の乱の事について検証すれば、大和朝廷の存在と倭国の海外政策が水と油のようであることが解るよ」

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